2024年8月27日火曜日

大杉栄とその時代年表(235) 1898(明治31)年3月31日 カール・マルクス娘エレノア、自殺 〈エレノア・マルクスの生涯概観(2)〉 『ボヴァリー夫人』翻訳 イプセン翻訳 イプセン論争 イギリス新組合運動への貢献 インタナショナル統一 エンゲルスの遺産 機械工組合闘争の敗北 エイヴリングの裏切り         

 

リープクネヒト、エレノア、エイヴリング

大杉栄とその時代年表(234) 1898(明治31)年3月31日 カール・マルクス娘エレノア、自殺 〈エレノア・マルクスの生涯概観(1)〉 リサガレーとの出会い エイヴリングとの出会い アメリカでの活動 『資本論』英訳への参画 イプセンへの傾倒 より続く

1898(明治31)年

3月31日 

カール・マルクス娘エレノア、自殺 

 〈エレノア・マルクスの生涯概観(2)〉

当時エレノアはフローベル『ボヴァリー夫人』の翻訳を始めていた。この書物が、ナポレオン三世の政府によって背徳を理由に起訴されたことは、彼の「不滅の名誉」である、と翻訳の序文で述べている。シェークスピアの理想に忠実に、フローベルはブルジョア道徳を鏡にてらし、人々がその鏡に映った自らの像に衝撃を受けたのは当然であるという。エレノア自身は、エンマの性格を通じて描かれた自己欺瞞の問題に興味を抱いていた。フローベルの鏡は、エイヴリング夫妻をもうつしだしていた。エンマは、エレノアの理想とエイヴリングの堕落とを一身に体現して破滅した、と読みとることもできる。

劇作家エイヴリングが盲目の詩人マーストンと共同で書いた一幕劇『試錬』は、1885年12月、ロンドンの二流の劇場ラドブルック・ホールで上演され、ネルソンが田舎医者を、エレノアがその妻を演じた。ある劇評は、彼女が「驚くべき量のカと感情」を示したと賞讃したが、劇そのものは失敗であった。

ついで1887年11月、ネルソンまたはエイヴリングの第二の作品『海のほとり』が、同じラドブルック・ホールで上演された。エレノアは、少女時代の恋人を慕う人妻の役を演ずるが、彼女の演技は酷評をうけ、俳優としての彼女の野心は、一瞬に崩れ去ってしまった。しかし、エレノアの不幸をよそに、エイヴリングはようやく劇作家としての成功を掴もうとしていた。『海のほとり』が各地で好評を博した。

舞台を放棄したエレノアはイプセンの翻訳にあたり、『民衆の敵』が『社会の敵』として1888年に、『海の夫人』が1890年に出版された。一方エイヴリングは、ホーソーン『緋文字』を演出したが、その後の創作活動は、たいした進展をみせなかった。

英国演劇史上に一時代を画するイプセン論争は、1889年の『人形の家』上演に始まる。それは、婦人の解放と「真実の道徳」とを求める「イプセン派」と伝統的な家庭道徳を擁護する「反イプセン派」との論争であり、その一環として、『人形の家』の続篇が書かれさえした。エレノアはユダヤ人作家イズラエル・ヴァングウィルと共同で『人形の家の修繕』を書き、ノラが英国風の「良識」にしたがって家を出なかった場合を想定して物語を展開した。エイヴリングも「イプセン派」の先頭に立って活躍した。これら一連の努力を通じエイヴリング夫妻は、愛情と義務、自由と因襲の相克というひとつのテーマを追求し、イプセンに大きく依存した。

エレノアは、イギリス国内の新組合運動(ガス労働者組合)に対して大きな貢献を果たした。ストライキ委員、支部拡大委員として活躍し、エイヴリングとともに、ガス労働者を中心に、パリのインターナショナル大会の決定にもとづく8時間労働法獲得のためのメーデー示威集会を組織した。その直後に開催されたガス労働者組合の1890年年次大会で、エレノアは組合執行部に選出され、彼女が作成した新綱領・規約が採用された。それは、全ての労働者を男女とも平等の立場で受入れるという、産業別・職能別の差別を超越したジェネラル・ユニオンの理想を掲げ、生活と労働の物質的条件だけでなく、「この世の涙と笑い、悲しみとよろこび、労働とレジャー」のより平等な分配をうたうものであった。

その間ドイツ社会民主党は、組織の拡充に奔走していた。

インターナショナル統一は、1891年のブラッセル大会で成立するが、それに先立ち、1890年10月、エレノアは統一準備のため、フランス労働党のリール大会およびドイツ社会民主党のハレ大会に出席した。このときハレからエンゲルスに書いた手紙のなかで彼女は、フォルマーを中心とする改良主義者が党にとって危険な存在であることを指摘する一方、ドイツの党員の多くが、英国の労働組合員と同じく「見るのも苦痛なほど勿体ぶり、ブルジョア顔をしている」と述べている。

インターナショナルとの結びつきが、エイヴリングの英国社会主義運動主流への復帰を可能にした。1893年の独立労働党(ILP)創立大会で、彼は執行部に選出され、綱領の作成に参加した。しかし彼は、ILP会長ケア・ハーディーが保守党に接近しているものと判断し、とくに政府にたいするハーディーの失業対策要求が、結局は議会内の労働者議員ではなく、保護貿易論者によって支持された点を強調した。しかし1894年のメーデーをめぐる内紛によりエイヴリングはロンドン地区から除名された。本当の理由は、彼に対する一般的な不信の高まりであった。

マルクスの遺稿をふくむエンゲルスの「財産」処理が最大の関心事となってきた。

当時カウツキーと離婚したルイーゼがエンゲルスの秘書となったが、彼女は、「遺稿」をドイツ社会民主党に確保するため、ペーペルとアドラーとに協力する密使でもあった。彼女は、ウィーンから派遣されたエンゲルスの侍医ルードヴィヒ・フライベルガーと結婚するが、フライベルガーは、1893年7月29日に作成されたエンゲルスの遺言の証人でもあった。この遺言によると、サミュエル・モーア、ベルンシュタインおよびルイーゼが遺言執行人にえらばれ、遺産のうち1,000ポンドはドイツ社会民主党の選挙資金として用いられ、3,000ポンドは「パンプス」(亡くなったエンゲルス夫人エリザべス・バーンズの姪マリー・エレン・バーンズ)に与えられることになった。さらにドイッ社会民主党は、エンゲルスの所有または管理する全ての書物(マルクスの蔵書をも含む)および彼の版権を譲渡されることになった。彼の原稿や私信ほペーペルとベルンシュタインにあたえられ、マルクスの手になる原稿や手紙(マルクス宛を含む)はエレノアに帰されることとなった。ルイーゼは彼の邸宅・家具の一切を与えられ、更に残りの財産の四分の一を受取ることになった。あとの四分の三は三等分し、エレノア、ローラおよびジェニィの子供たちに配分されることになった。この遺言は、ルイーゼを最大の利益者とする一方、マルクスの書物や遺稿の処分を取り決めながら、マルクスの法定代表人であるエレノアを遺言執行人に加えなかった。

エレノアの幸福な少女時代の証人ともいうべきへレーナ・デムートは、エンゲルス家に仕えていたが、1890年に死亡した。エレノアはその息子フレデリク(労働者の家庭の養子として育てられていた)と親しくなるが、はじめ彼を、エンゲルスの息子と信じていた。ルイーゼやサミュエル・モーアから、フレディがマルクスの息子と伝えられたエレノアは、エンゲルスの死の前日直接エンゲルスから事実を知らされる。異母兄の発見は、エレノアに新らしい力を与えた。リープクネヒトのマルクス小伝に言及しながら、「人間マルクスほ『政治家』『思想家』マルクスほどには首尾よく行かないでしょう」と書いているが、彼女はフレディに特別な愛情をもつようになった。

エレノアは、父の伝記を書こうと思いたったが、そのために不可欠なマルクス=エンゲルス往復書簡は、当時、ロンドン在住のドイツ社会民主党代表モテラーの家の、二重鍵をかけたケースに納められ、エレノアの手には届かなかった。彼女はマルクスの英語の論文の編集にあたり、『ニューヨーク・トリビューン』紙にのった1848年革命の歴史を『革命と反革命』として出版し、同じくクリミア戦争を扱う『トリビューン』の論文から『東方問題』を編集した。

かつてエンゲルスは、エレノアだけが、英国社会主義の十分な歴史を書くことができると述べた。

1895年、彼女の「英国だより」がセント・ぺテルスブルグの月刊評論誌『ロシヤの富』に連載された。また彼女は、ヴルムの『国民百科辞典』に「英国における労働者階級運動」を書き、1381年の農民戦争から独立労働党に至る歴史をあとづけた。当時彼女は、カウツキーやベルンシュタインがはじめたマルクス主義者による歴史研究の一翼を担っていた。

エンゲルスの遺産は2万5千ポンドにおよぶ莫大なものであり、エレノアも数千ポンドを得て、ほじめて生活に余裕を見出した。ロンドン南郊シドナムに家を入手し、ここを本拠として組合運動と社会主義運動に余生を捧げようとした。

エンゲルスの死後、社会民主主義に転機がおとずれた。日和見主義的傾向が、ドイツ社会民主党の大勢を左右するようになった。

他方、エイヴリング夫妻は、ハインドマンの社会民主主義連合(SDP)と和解し、1896ロンドンで開催されたインターナショナル第四回大会が、彼らの結束をさらに強化していた。

その間、エイヴリングの私生活上の「事件」が、シドナムの平和を乱していた。エイヴリングの別居した妻イザベルは、1892年に死亡していた。彼は、インターナショナルのための資金募集の演劇会で知りあったエヴァ・フライという音楽教師の娘に接近するようになった。

1897年6月、エレノアが、ロンドンで開かれた国際炭坑労働者大会に出席していたとき、エイダリングは、ネルソンなる芸名でもって、エヴァと正式に結婚した。それは「合法的な姦通」であり、自由恋愛の理想を嘲笑するものであった。失意の劇作家とかけだしの女優とは、エレノアを悲劇の主人公に仕立てた芝居を企てたものと思われる。しかもエイヴリングは、1895-6年のエレノアの遺言によって、彼女の財産一切の相続人に指定され、この芝居から金銭的利益を期待することもできた。

1897年秋、19世紀最大の資本と労働の闘争のびとつ、機械工組合員はロックアウトに突入した。エレノアは、ドイツの労働者にあてた訴えのなかで、雇主が歴史上はじめて、個々の雇主としてではなく、階級としての雇主のために階級間争をはじめた点を強調した。ドイツからの義損金は、海外から送られたロックアウト資金の約半分、1万4千ポンドに達した。しかし闘争は長期化し、翌年はじめ組合は、8時間労働の要求を撤回して降伏した。

1897年秋、エレノアは、地方選挙のSDF候補応援演説のためランカシアを訪れたが、同行のエイヴリングが肺炎を患い、持病の濃瘡も悪化した。転地療養、入院、手術と、エレノアは献身的に看護する。やがてエイヴリングの容態が好転したので、エレノアはマルクスの遺稿の編集を再開するため、1898年3月27日、エイヴリングを、保養地マーギットからシドナムヘ連れて帰った。その直後、3月31日朝、エレノアは、エイヴリングとエヴァとの結婚を知らせる手紙を受け取った。

理想が辱しめられ、犠牲が嘲けられ、エレノアは、自殺を決意した。同日、地元の薬剤師へ「犬用にシアン化水素(青酸カリ)を少量処方してほしい」とのメモを、メイドに言付けた。

薬剤師に処方してもらった青酸カリを受け取ると、領収書を薬剤師に返すため、メイドを薬剤師の元へ送る。その後自室に引き篭もり、遺書を残して服毒自殺。戻ったメイドがエレノアを発見した時には、殆ど息をしておらず、医師が駆け付けた時点で既に死亡していた。43歳だった。

エレノアを、エイヴリングが封助したこと殆ど疑いない。薬局から青酸が到着するや、彼は急にロンドン行きを思い立った。

4月5日に葬儀。多数の参列者。エイヴリングの他、ロバート・バナー、エドゥアルト・ベルンシュタイン、ピート・カレン、ヘンリー・ハインドマン、そしてウィル・ソーンが挨拶に立った。

その後のエイヴリングの行状、検察官の取調べ、社会主義者の驚愕、友人たちの憶測は、ひとつの推理小説を構成し得るものである。エイヴリングは、濃瘡が悪化し、4ヵカ月後の8月2日、ネルソン夫人のマンションで死亡した。48歳。


つづく

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