大杉栄とその時代年表(211) 1897(明治30)年1月1日~31日 鉄幹第2詩集「天地玄黄」 田中正造「議員の質問と政府の答弁」 尾崎紅葉「金色夜叉」 柳原極堂、松山で『ほとヽぎす』創刊 より続く
1897(明治30)年
2月
英清条約、調印。清国、イギリスにビルマ鉄道の雲南への延長を認める。
2月
ロシア、「ヴェトローヴァ事件」。ペテロパウロ要塞に収監されている女子学生ヴェトローヴァが焼身自殺。
この年、トロツキー(18)のいるニコラーエフに大工場2つが設立、工場労働者8千・職人2千となる。彼らに対し、読書会・討論会を組織、ビラ・パンフ配布。「南部ロシア労働者同盟」を組織し、規約を起草。
2月
グスタフ・マーラー(37)、カトリックに改宗(ユダヤ教徒では官立機関の要職に就くことは不可能なため?)。
2月2日
スペイン、キューバ自治権承認。
2月6日
八幡製鐵所、設立。
1895年(明治28年)、製鉄事業調査会を設置して調査を開始、「製鉄所は官営とする。原料は豊富。製鉄・鉄鋼の試験結果も良好」との結果を報告。
翌1896年(明治29年)3月30日、製鉄所官制を発布し、 長官・山内堤雲、技官・大島道太郎が決定。設置場候補地として福岡県遠賀郡八幡村(現北九州市八幡東区)、企牧郡柳ヶ浦、広島県安芸郡阪村の三か所があげられる。実地調査の結果、豊かな石炭の産地である筑豊炭田から鉄道や水運で石炭を大量・迅速に調達できる点と、港もあり軍事防衛上や原材料入手の双方の利便性が決めてとなり八幡への設置が決まる。また調査委員長を務めていた福岡県出身の農商務次官・金子堅太郎のバックアップと、背後に三井、三菱、住友、古河などの中央資本や地元財閥の貝島、麻生、安川などが筑豊炭田に進出していたことも八幡決定の要因として大きい。
1897年(明治30年)2月6日、「製鉄所ハ福岡県下筑前国八幡村ニ之を置ク」と公示され着工、1901年(明治34年)2月5日に東田第一高炉で火入れが行われる。建設費は、日清戦争で得た賠償金が充てられる。
2月6日
オスマン領クレタ島で反乱。住民はキリスト教徒ギリシア人が多数であるが少数イスラム教徒の圧制が激しい。弁護士エレフセリオス・ヴェニゼロス等の反乱軍、オスマン帝国からの独立宣言。
4月18日、ギリシャ、オスマンに宣戦。
2月7日
高野房太郎、「此日社会政策学会ニ列シ遂ニ会員トナル」(『日記』)
2月13日
フランス軍、ナイジェリア・ブサ占領。イギリスとの緊張高まる。
2月13日
フィリピン、スペイン軍のカビテ反攻作戦が始まる。
2月14日
花菱アチャコ、誕生。
2月15日
~28日。大阪の南地演舞場でシネマトグラフが初興業。日本最初の「映画興行」と言われる。
2月17日
この日付け子規の漱石宛手紙。西洋の「詩集を読むことが近来の第一の楽(たのしみ)」と。
「ずるいこともずるいが忙しいこともいそがしいので御無沙汰致候。苦しいことも苦しいが忙しいことも忙しいので筆ははなさず候。胃が悪いことも悪いが、いそがしいこともいそがしいので大食も致し候。
本年初よりほとんど筆を置くひまがない程いそがしく、いはゞ筆硯御繁昌先づ先づおめでたうと自ら祝し奉る儀に有之候。左様な仕合せなれバ大兄の事を思ひ出す間が無い位にいそがしく御座候。しかしたまたまに大兄の事を思ひ出す。それは西洋の詩集を読む時に有之候。詩集がむつかしいのと字書が備はらずに居るとでどうしても分らんことが多い。その時ハいつでも大兄が東京なら善からうと思ふ。詩集を読むことが近来の第一の楽で少し間があれば詩集を見る、嬉しくてたまらん、けれども年始已来(いらい)詩集を見る時間も少い、それ故大兄を思ひ出すことも少かつたとマアかやうな次第に有之候。
(略)
・・・・・「たまたまに大兄の事を思ひ出す それは西洋の詩集を読む時に有之候 詩集かむつかしいのと字書か備はらずに居るとでどうしても分らんことか多い 其時ハいつでも大兄か東京なら善からうと思ふ」と言いながら、「新体詩に押韻を初めたところが実にむつかしい」と、新体詩を話題にする。そして「毎夜」の「発熱」を押して大変な苦労をして「一篇」を作り上げたことを報告し、「併し出来て見ると下手でも面白い 病気なんどはどうでもいゝと思ふ」と自らの病と創作の関係に言及していく。
子規にとって表現することは、病と向き合って生き抜くことと一体の実践、生きることそのものであったことがわかる。漱石への手紙には、その思いがぶつけられていく。実は病気は「どうでもいゝといはれぬ」状態なのだ。「腰が又々痛を増した 少し筋肉が腫れた」と病状報告をする。「外科的の刃物三昧に及ばなければならぬ」という覚悟も決めている、と一旦は見得を切ったうえで、「痛いことも痛いことと存候」と本音をはく。そのうえで、改めて、自分にとって表現することの意味を、子規は漱石に伝えようとする。
僕の身はとうから捨てたからだゞ 今日迄生きたのでも不思議に思ふてゐる位だ 併し生きてゝ見れは少しも死にたくはない、死にたくはないけれど到底だめだと恩へバ鬼の目に涙の出ることもある、それでも新体詩か何かをつくつてゐればたゞうれしい、死ぬるの生きるのといふはひまな時の事也 此韵(いん)はむつかしいが何かいゝ韵はあるまいかと手製の韵礎を探つてゐる間に生死も浮世も人間も我もない天下ハ韵ばかりになつてしまつてゐる アゝ有難い此韵字ハ妙だと探りあてた時のうれしさ
「文学」表現を生み出していくことの自分にとっての意味を、これほど素直に子規が言葉にしている例はあまりない。思えばこの手紙は、「忙しいこともいそかしいので」「忙しいことも忙しいので」「いそかしいこともいそかしいので」という同じ言葉の繰り返しを、異なった文字適いで三回反復することから始められていた。
「ほとんど筆を置くひまかない程いそかしく」していないと、「死ぬるの生きるの」になるからである。俳句だけでは「ひま」が出来る。だから新体詩に挑戦する。それでも「ひま」があるから、「小説とハとんなに書いたらいゝのであらう」と言いながら、すでに新聞に小説の執筆が予告されているのだ。「忙しい」中へ自分を追い込むしかない子規の、生への切迫感が、手紙の構成そのものとして、漱石に手渡されている。」(小森陽一『子規と漱石 友情が育んだ写実の近代』(集英社新書))
2月20日
朝鮮、高宗(46)、ロシア公使館より慶運宮に戻る。
2月22日
荒井和一輸入のヴァイタスコープ、大阪・新町演舞場で上映される。
2月26日
田中正造、質問書「公益に有害の鉱業を停止せざる儀につき質問」を、進歩党議員37名始め各党議員47名の共同提案者と賛成者62名の計109名の支持を得て提出。
2日後、演説。2時間。
2~4月、鉱毒演説会続く(聴衆600~700名、多いときは2千名)。
2月28日神田青年会館など。講師:田中正造・津田仙(農学者)・松村介石・高橋秀臣・島田三郎・山口弾正・谷干城・西村玄道・三宅雪嶺ら。これら知識人を組織したのは栗原彦三郎(青山学院学生)。
3月19日谷千城、24日榎本武揚巡視。
5月「鉱毒予防令」。
「公益に有害の鑛業を停止せざる儀に付質問書 田中正造(明治三十年二月廿六日、衆議院提出)」(青空文庫)
2月27日
ハワイ移民665人中463人が手続き不備などの理由で上陸を拒否
2月28日
立憲自由党脱退分子、「新自由党」結党。伊藤内閣に気脈を通じる自由党大ボス星亨の子分森久保作蔵らが、三多摩壮士・八王子農民を結党式会場芝・紅葉館に動員。第10議会では軍備拡張予算に賛成。海相樺山資紀・陸相高島鞆之助の機密費で買収。
幸徳秋水「新自由党報告書に擬す」(「中央新聞」4月15日)で政界の堕落を痛罵。
つづく
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