2012年10月24日水曜日

寛弘2年(1005)11月~寛弘3年(1006)3月 造内裏定 「坂東に至りては、已に亡弊国、敢えて宛つべからず」(藤原実資『小右記』)

東京 江戸城(皇居)東御苑
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寛弘2年(1005)
11月
・内裏が焼亡し、再び神鏡が焼損する
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12月
・入宋の天台僧寂照からの書が道長のもとに届く。
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12月
・行成が伊勢公卿勅使となる。
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12月
・道長、法性寺に五大堂建立を決める。
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12月
・造内裏定が行われる。
陣座(じんのざ)でなく天皇御前での御前定(ごぜんのざ)が開かれる。
天皇から「造宮が重なり諸国は疲弊していて官物もないだろう。国司に叙位を与えるべきか、造営期限をいつにするか、定め申せ」と議題が出され、道長以下12人の公卿が議して、費用を正税から支出せず造営する国司に対してのみ叙位することに決定した(『小右記』)。

受領の奉仕の条件であるから公卿の定によっているが、正税からの支出を抑制する方向がみられ(長和3年(1014)も同じ条件とした)、受領に対する一方的賦課の強化というこの前後の傾向の表われである(受領は国内では臨時雑役として賦課した)。

この時、道長は、近江は美福門(宮城門)、丹波は豊楽院、紀伊は日前(ひのくま)・国懸(くにかかす)神社の造営にあたっていて、坂東は亡弊(疲弊はなはだしい)国であり、殿舎を割り当てられず、造営にあたる国が足りないと述べ、播磨守藤原陳政が常寧殿・宣耀殿を造るので重任させてほしいとの申請に対して、さらに蔵人宿所の造営を追加して裁可している。
他の造営との重複や国の状況を考え、過重な負担にならないようにいろいろな調整がなされたのである。
造宮の実務は別当・行事からなる行事所で処理されたが、各国からの造営に関する申請は、公卿の定によって決定される。

「坂東に至りては、已に亡弊国、敢えて宛つべからず」(藤原実資の日記『小右記』寛弘2年12月21日条)

天徳の焼亡で焼け跡から掘り出された神鏡は、この寛弘2年の時に再び焼損し、鏡の形を失ったらしい。
火災直後から神鏡を改鋳すべきか、公卿が議論している。
諸道に勘文を提出させたうえで、翌年7月に天皇御前において公卿が集まり定を行なった。神鏡を改鋳すべきでないという多数意見と、道長・伊周・公任の3人の、祈祷や占いを加えてその結果で決めるべきだとの意見に分かれている。これが後世「神鏡定」と称される御前定の先例となる。

道長は、結局は取りやめになったが、神鏡を改鋳すべきだと主張している。
神鏡は、伊勢神宮の天照大神の形代(かたしろ)として神聖不可侵で崇拝の対象となるが、それは11世紀後半以降のことで、当時は、ほかの「三種の神器」の宝剣などと同じたんなる宝器だった。
古代貴族のある種の開明性がみてとれる。
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寛弘3年(1006)
1月28日
伊勢国守交替問題(平致頼との長徳の合戦に続いて平維衡が出てくる)
「儀の間に伊勢の避状(さりじよう)有り。守為度申して云く。くだんの替りにその人を申さず、ただ維衡を賜はらずてへり。この由を奏し、避書を進(まい)らす。儀の間案のごとく右府(顕光)維衡をもつて挙(あ)げ申す。仰せらる。如何。我奏して云く。宜しからざる事なり、彼の国に事有る者なり。用ゐられず、これ(維衡)を任ぜらる。奇(あや)しき事なり。御門(みかど)の御意未だ知らず、奇しき思ひ極まりなし。諸卿衆人奇しみ申すこと希有なり。丑時事をはんぬ。この事有るの後、欠官と雖も申し任ぜず、大間の清書を奉ず。立つて他の仰せ有り。左右申さず、これ心神相違するところなり。」(『御堂関白記』)。

国守辞任を申し出た藤原為度は、後任の名指しをしなかったが、既に伊勢守希望の意志表明をしていた維衡の任命のみは反対した。右大臣顕光が維衡を推していた。顕光は頑愚・無能の定評があった。ただ「案のごとく」は、人々が維衡と顕光の関係に通じており、顕光の維衡推挙が当然視されていたとの解釈が自然。
結局、一条天皇は道長と諸卿の強い反対を押し切って、維衡を伊勢守に任じている。天皇は堀河院修造の功を想起して、維衡を引きたてたのかも知れない。
しかし、「奇しき思ひ極まりなし」と、苦々しく思っていた道長らの巻き返しのせいか、3月19日、維衡は伊勢守の任を解かれる。

道長は、維衡は「彼の国に事有る者」、かつてその国で問題を起した人物だから、国守に任ずるのはよろしくない、起用は地方政治混乱のもとである、と主張し、一条天皇を翻意させた。

維衡にとって伊勢国守交替問題は、二重の打撃であった。まず、伊勢守になれなかったこと(しかし、伊勢守解任の3ヶ月後、上野介に任ぜられる)。次に、道長や諸卿に好ましくない人物という印象を与えたこと。
維衡は自らの状況を察知して、伊勢守解任後は、道長への接近を始める。
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3月9日
平八生(平維衡との長徳の合戦を戦った平致頼の一族)、陸奥国押領使に任ぜられる
致頼の一族は、平国香の弟良兼より始まり、子の公雅・孫の致頼と続く。

一族中の正六位上平朝臣八生(公雅の弟公基の子)、この日、太政官符により陸奥国押領使に任ぜられている。
陸奥国は、「北は蛮夷に接し、南は中国を承(う)く、奸犯の者、動(やや)もすればもって劫(強)盗す」という状態であったので、試みに八生を国の押領使に用い、追捕させたところ、「凶賊」は跡を絶ち「部内自(おのずか)らもつて粛清」した。それで正規任用にたると判断され、太政官に押領使補任を願い出、許された(『類架符宣抄』第七)。

彼がどのようにして陸奥国司と関係を持ったかは不明だが、「門風扇(さかん)なる所にして、雄武は群を抜く」兵の家系で、武勇に秀でている点を評価されての試用だった。
『今昔物語集』が公雅・致頼を、求めに応じて郎等を貸し出す傭兵隊長として描いている、そのような延長線上に八生は位置していた。
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