2012年10月22日月曜日

長保6年/寛弘元年(1004)~寛弘2年(1005)3月 藤原頼通(13歳)の春日祭使 中宮彰子の大原野行啓

東京 北の丸公園
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長保6年/寛弘元年(1004)
この年
・宋が契丹と澶淵の和議を結ぶ。
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2月
道長の長男頼通(13)、春日祭使となる。
前年に元服した藤原頼通(よりみち)は、この年2月、13歳右少将で春日祭使となり、5日に枇杷殿(びわどの)で出立の儀(饗を設け、楽舞が行なわれ、祭使をはじめ舞人・陪従らに賜禄する)が行なわれ、ほとんどの公卿・殿上人が参集。
7日には、祭使が帰着して還饗(かえりあるじ)が行なわれた(『御堂関白記』)。
道長は公任に子を想う和歌を贈る。
「若菜つむ春日の原に雪ふれば心つかひを今日さへぞやる」

この春日使は、『栄花物語』「はつはな」冒頭にも記されている。
「二月に春日の使に立ちたまふ。殿(道長)のはじめたる初事(ういごと)に思(おぼ)されて、いといみじういそぎたたせたまふも理(ことわり)なり。よろづにかひがひしき御有様なり。何となくふくらかにてうつくうおはすれば、限りなきものにぞ見たてまつらせたまふ。春日の御供には、世に少しおぼえある四位・五位・六位、残るなく参らせたまふ。」
長男の初仕事の華麗な場となり、道長は準備に心をつくした。
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3月
・この月、鴨川の東に新しく水路を開削し、それによって鴨川の流路を変更する試み
左大臣藤原道長はその時の様子を「申の時をもって水を移す。瀧の落つるが如し。旧き流れは水行かず」と記す(『御堂関白記』同年3月10日条)。
このときの工事は、「落水」とも表現されるように、鴨川の水位よりも低い場所に別の流路を確保するもので、かなりの大事業であったと想定されるが、しかしこれは必ずしも成功しなかったらしい。
6月に、「鴨河の新堤所々破る」(同6月2日条)という記録がある。
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5月
・この月、源信は厳久の譲りにより権少僧都に任ぜられた。
翌月、道長が病気の加持のためか使いを源信のもとに送っている
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7月
・寛弘に改元。
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寛弘2年(1005)
この年
・または翌寛弘3年、紫式部、一条天皇中宮藤原彰子のもとに女房として出仕。
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3月8日
・この日、中宮彰子は大原野行啓(ぎようけい)を行なう。
この大原野行啓は盛大な儀式で、仁明(にんみよう)皇太后藤原順子(じゆんし)の例をもちだしてはいるが、実質上は新儀であった。
車を輿に改め、「社頭の作法、宛(あたか)も行幸儀のごとし」「社頭の東遊(あずまあそび)並びに音楽、皆行幸の時のごとし」(「小右記」)と、行幸を模して計画されていた。
のち鎌倉時代になっても、この時の例は先例として重視されている。
皇后も立后したら自ら大原野に行啓して守護を仰ぐことが必要とされた。

この行啓について、「舞人には、たれたれ、それそれの君達などかぞへて、一の舞には、関白殿の君(頼通)とこそはせさせたまひしか」と『大鏡』下巻「雑々物語」に、「いみじうはべりし」様子が詳しく描かれている。
藤原行成が彰子の立后に際して第一の論拠としたのは大原野社祭祀の懈怠(けたい)問題であった。

安倍晴明は、この月の中宮彰子の大原野社行啓の際、反閉(へんぱい、行路の邪気を払う作法)を勤めたことを最後に記録から姿を消す。恐らく間もなく没したと考えられる。同年9月に没したとのいい伝えもある。
晴明は一説に讃岐の出身であるという。生没年は不明だが、天徳4年(960)頃、天文得業生(とくごうしよう)としてその名を見せており、以後10余年間活躍し、天文博士にもなった。
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3月29日
・この日、道長邸で作文が行なわれた。
公任は斉信に超越されて出仕しなかった時期であるが、『小右記』には「左府に於いて作文有り。属文の卿相以下文人多く会す、と云々」とある。

この3月末日に往く春を惜しむ趣向は「三月尽(さんげつじん)」と呼ばれる
紀斉名作の三月尽の詩序(『本朝文粋』)によれば、三月尽は、中国に古くはなく、唐朝になって自居易などが詩文を作って書にのせたとする。
自居易には三月晦日や送春の詩が多く、日本でも白詩の流行により平安時代以降三月尽の詩が詠まれた。
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