1898(明治31)年
3月31日
カール・マルクス娘エレノア、自殺
〈エレノア・マルクスの生涯概観(1)〉
1855年1月16日、ロンドンのソーホーに一角でカール・マルクスと母イェニー・マルクスとの間の第六子、四女として生まれる。マルクス豪でただびとり、英国国籍をもつ英国市民。
16歳で父の秘書となる。
1871年4月、姉ジェニィと共にボルドーへおもむき、姉ローラ(パリ・コミューンの密使ポール・ラファルグのの妻)に協力した。
70年代ロンドンの外国人サークルは、コミューン亡命者の合流によって熱気をおびていた。そのうちプルードン派社会主義者で医学生のシャルル・ロンゲはジェニィと結婚し、コミューンのジャーナリストのリサガレーはエレノアの婚約者になった。
父カールはこれに反対、エレノアにリサガレーと会うことも禁じた。
1874年、ようやく父カールの禁制が解け、彼女はロンドンに赴き、リサガレー『1871年のコミューン史』執筆を手伝った(1876年ブラッセルで出版。1886年エレノアにより英訳、出版)。
1880年、リサガレーやロンゲは許されて帰国。エレノアはとりのこされる。
1881年12月に母イエニーを、1883年1月に姉ジェニー・ロンゲと、2ヶ月後には父カール・マルクスを相次いで亡くす。
エドワード・エイヴリングはマルクスの葬儀参列者の中ですでに主要な地位を占めていたが、1883年、エレノアのマルクス略伝および剰余価値論解説が、彼の編集する雑誌に発表された。
1884年、エレノアはハインドマンの社会民主同盟(SDF)に加わり、そこでエイヴリングと出会う(同年、SDFを脱退し社会主義同盟を結成する)
1884年年6月、エレノアはエイヴリングと結婚生活に入ると姉ローラに通知した。エイヴリングには別居した妻があり、エレノアは正式に結婚できなかったが、「愛情、趣味と仕事における完全な共感、ならびに同じ目的のための努力」が人を幸福にするならば、我々は幸福になるだろうと彼女はドリー・ラドフォードに書いている。しかし、彼女が、必要に迫られた自由結婚を原則の問題としてとらえたことのなかに、すでに悲劇の萌芽がひそんでいた。その上エイヴリングは、金銭問題、女性関係について、たえず悪評にさらされていた。この点についてエンゲルスもエレノアも、それが政敵ブラドロウとハインドマンの中傷によるものと信じていた。
ハインドマンの社会民主主義連合が分裂したあと、エイヴリング夫妻は、ウィリアム・モリスをたすけて、新設の社会主義連盟を国際的なマルクス主義政党に発展させようと努力していた。当時のエレノアの主要な関心事のびとつは婦人問題であった。たまたまロンドンで大規模な少女の売春組織があかるみに出され、売春取締のための刑法改正(婦人の同意年齢の13歳から16歳への引上げ)が行なわれた。エレノアは売春を「性支配」の問題とみなし、その解決は「階級支配の廃止」に依存するというペーペル婦人論の立場を援用し、エイヴリングと共同で『婦人問題』を書いた。
1885年、パリで国際社会主義者会議の結成に係わる。
1886年秋、エイヴリング夫妻は、リープクネヒトと共にアメリカ社会主義労働党に招かれて渡米。同党はドイツ人移民の支配下にあったが、エイヴリングは、党のアメリカ人部門強化の必要性を説き、エレノアも同じ目的のため、婦人の入党を勧告した。夫妻は2ヵ半でニューヨークをはじめ35都市で講演を行なった。党のドイツ人指導者は、エイヴリングがアメリカ滞在中、党費で賓沢な生活を送り、「労働者の金をだましとった」と公然と非難し、これがロンドンに伝えられ、彼の名誉回復のために、エンゲルスまでが奔走しなければならなかった
アメリカでの活動のあと、夫妻の関心事は、英国イースト・エンドの急進派労働者を中心に、労働者の階級政党を組繊することとなった。
1887年初めに出版された『資本論』第一巻の英訳が、彼らの新しい活動に理論的根拠をあたえるものと期待された。エイヴリングはサミュエル・モーアの翻訳に参加し、エンゲルスの指導のもとに主に叙述的な部分を担当し、エレノアは、二重訳の誤りを防ぐため「ブルー・ブックス」からの引用を検証していた。『アシーニアム』紙上に発表された最初の書評では、マルクスは、工場立法の実証的研究にとくにすぐれた社会史家」として評価された。
しかし,やがて英国内の代表的な反響は、限界効用学説を採用したバーナード・ショウによるマルクス価値論の批判というかたちをとり、同じくフェビアン社会主義着で今ではエイヴリング夫妻を憎悪する、かつてのエイヴリングの恋人ペザント夫人が、「矛盾と悪しき形而上学のこの沼泥は、近代社会主義の安全な基礎たり得ない」と宣言して、価値論論争に終止符を打った。このころから『資本論』の売行も急激に低下した。
演劇へのエレノアの関心は、父マルクスから受け継いだものであり、この頃彼女は、劇作家として注目され始めた夫エイヴリングとともに、英国演劇界の「革命」に関係するようになった。英国の劇場に、新らしい息吹きが流れていた。劇作家に新らしい演劇、新らしい思想の実験をこころみる機会をあたえていた。演劇批評が職業として成立するようになり、社会問題について見解を表明しはじめた。大胆な若い劇作家が、在来の道徳や社会通念を攻撃しはじめた。彼らは、ブルジョア社会のとりでとみなされた結婚と財産の二つの制度ととりくんだ。
英国の新しい演劇運動は、主にイプセンの影響から出発した。その先覚者は、スコットランド出身のジャーナリストで非宗教論者のウィリアム・アーチャーであり、エイヴリングの『プログレス』紙上でスカンディナヴィア文学を紹介したのもアーチャーであった。エレノアが『人形の家』に夢中になったのは、この頃である。
当時エレノアは、『人形の家』上演の計画をたて、ショウに参加を要請する手紙を書いた。「勉強すればするほど、私には彼〔イプセン〕が偉大に思われます。彼の劇が『終りをもたず』我々を突きはなすと人々が不平をいうのは、何と奇妙なことでしょう。・・・我々は、我々の小さなドラマ、喜劇、悲劇、茶番劇を演じ、おわるとまたはじめからやり直すのです。もし我々が、人生の諸問題に解決を見出すことができたならば、この物憂げな世の中は、万事、ずっと楽になるでしょう。」
『人形の家』は、1886年1月15日、エレノアの家で上演された。英国最初の上演ではなかったが、画期的なものであった。エレノアがノラを、エイヴリングがヘルマー、ショウがタログスタット、ウィリアム・モリスの娘メイ・モリスがリンデン夫人を演じた。
つづく
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