1897(明治30)年
10月
中国、教会による玉神廟取壊し阻止のため、梅花拳と教民が衝突。教民側死者5。
10月
この月、金本位制へ移行。
93年発足の貨幣制度調査会で議論。金貨国からの兵器・機械の輸入を重視する金本位論者阪谷芳郎らは少数派で、渋沢栄一・園田孝吉ら委員の多くは銀貨下落が輸出に有利として現行の銀本位制を支持。しかし、賠償金をポンド貨で受取るか否かの問題が生じた為、阪谷ら大蔵官僚は強引に委員会の結論を金本位制の方向へ導く。
先進国が形成する国際金本位制への仲間入りは、日本資本主義の国際通貨面での確立の指標である。但し、この確立は賠償金取得を契機とする他律的なもので、ロンドンの在外正貨を重要な基礎とする変則的なものであり、「戦後経営」進展による在外正貨の減少は、直ちに金本位制の基礎を揺がすことになる。
10月
坪内逍遙「史劇に就きての疑ひ」(「早稲田文学」)
10月
与謝野晶子(19)、「新声」第8巻10号に俳句1句が「勝女」の筆名で碧梧桐の選を受ける。
10月1日
台湾総督府高等法院長高野孟矩、非職命ぜられる(総督府法院判官の地位はそのまま、法院長免職)。松方首相が日本に呼戻し、自発的な退職を促すが、従わないので非職を命じる。同時に年俸500円上積み。
高野はこれにも従わず、17日台湾に戻り、台湾法院長として出勤。警官により退去させられ、抗命のため12月18日付けで懲戒免職。高野はこれにもめげず、十数回にわたり抗議書を提出、高等法院長としての俸給支払い民事訴訟を起こす。①台湾総督府法院官の身分保障問題、②憲法の台湾への適用をめぐる憲法問題に発展。「高野盂矩非職事件」(大津事件以来最大の司法権独立問題)。
非職の理由:高野が自らの調査結果を基に建白書「震林地方巡察前後に於ける台湾の施政方針に関する意見書」(日本人の非行、官憲の横暴を認める)を総督に送り、明治29年には台湾総督府の腐敗実態と政治改革の意見書を松方首相及び要路に送る。民政局長水野遵総督代理との軋轢生じる。
丁度、時を同じくしてある投書を発端に疑獄事件。乃木の調査により、第1疑獄事件(民生局事務官検挙)、第2(総督府土木課長検挙)、第3(民生局技師ら検挙)に発展。乃木は人事一新を決意、水野民政局長・高野高等法院長ほか首脳の殆どを更迭しようとする。一説には、腐敗官吏掃蕩を主張する高野を水野と共に両成敗的に非職処分。7月20日付け非職の水野は12月24日付けで貴族院議員に勅選。
10月2日
足尾銅山鉱業停止東京事務所に詰めていた栃木県足利郡(旧梁田郡)久野村在住の室田忠七の鉱毒事件日誌より
10月2日
足利税務署で宅地税猶予願を述べたが、署長は「宅地ハ素ヨリ収獲ノ有ベキモノアラズ」から宅地は猶予しないと答える。
10月7日
再び足利税務署に行って、宅地税について群馬県は猶予したのに栃木県はなぜ猶予しないのかと理由を問うたが、署長は認めず。
10月8日
県庁で宅地税について問うた結果、「被害地関係地丈ハ宅地ナリトモ徴収ヲ中止スルトノコト決シ、地方税務署通告セリ」との返事をもらう。
10月17日
早川田雲龍寺事務所において、四県共同で被害地の「財産救済快復ノ請願書」を町村長の調印を得て提出することを決める。
10月20日
「請願書」の草案をもって足利郡内の役場を回る。
以上のように、5月27日の鉱山主・古河への37項目の予防命令が発せられた後、被害民は鉱山停止を前面に揚げてはいない。前面に揚げられたのは鉱毒地の復旧であり、宅地税(耕地は既に免租・減租にするとの方針で大蔵省は調査に入いっている)の免税であった。
10月6日
朝鮮、ロシア公使、朝鮮にイギリス人総税務司ブラウン解雇とロシア人登用要求
10月9日
大佛次郎、横浜英町で誕生。父は日本郵船会社社員。37年4月太田尋常小学校入学迄同地で育つが、翌月東京に転居。
10月10日
第五高等学校創立記念日に漱石が教員総代として祝辞を述べる。
10月10日
子規の旧知の京都の禅僧天田愚庵が人を介して、釣鐘という名の大きな柿を15個ばかり届けてきた。子規は、使いの人がまだ枕頭にあるのに辛抱できず、つづけざまに3個食べ、夜までにさらに10個食べ、僅か2個を翌日に持ち越すばかりとなる。
天田愚庵宛ての礼状の末尾に2句をしたためる。
つり鐘の蔕(へた)のところが渋かりき 子規
柿熟す愚庵に猿も弟子もなし
10月12日
朝鮮、国号を大韓帝国とし高宗皇帝即位
10月15日
17日に台湾に戻る高野孟矩激励会。松岡康毅・島田三郎(立憲改進党代議士)・後藤新平(内務省衛生局長)・寺島直(大審院判事)・田中正造(改進党代議士)・大岡育造(国民協会前代議士)・三宅雪嶺らのほか判事・弁護士・実業家・新聞記者130人参加。
10月16日
朝鮮、鎮南浦・木浦居留地規則調印、/11/15.告示〔告〕
10月19日
大隈外相、松方首相に伊藤入閣を勧告。
10月20日
朝鮮、朝鮮王朝最後の皇太子となる李垠(リ・ギン)誕生
10月21日
台湾総督府官制公布。総督は陸軍大中将。
10月22日
台湾総督府高等法院長高野孟矩、帰台。
23日、乃木総督に帰任届提出、官舎入り。
27日、乃木は高野を説得、談判不調。
28日、警察により高野を高等法院長室から排除。
11月3日、台湾を出発。有志送別会では数十発の花火。
23日、東京着。
12月1日、板垣退助・島田三郎ら名士数百名による招待会。
10月22日
松方首相・樺山陸相・西郷海相、大隈外相を訪問。連立関係修復のため。不調。
同日、進歩党議員会、松方内閣に対し、内閣改造・経費節減・台湾統治方針変更などを要求することを決議。
29日、松方首相、進歩党議員会の要求拒絶。
31日、進歩党議員会、松方内閣との提携断絶を決議。
この月、会計検査院の内部対立と台湾総督府と同高等法院との対立が政府内部に波及し、進歩党系内閣書記官長高橋健三・法制局長官神鞭知常が辞職。政府と進歩党の関係は悪化し、進歩党は松方に対して「異分子」(清浦・野村・蜂須賀ら山県系閣僚)を排除する内閣改造等を求める決議を提出。両者の交渉は不調に終り、この日の党常議員会での断絶決議に至る。
続いて大隈も、政府が次期議会に提出を予定する地租増徴案を巡り松方と対立、外相を辞任。提携破綻の基本的原因は、「戦後経営」計画推進の為の地租増徴について、進歩党が自由党との競争上からも同調できない点にあり、第11議会を前に提携は限界に達する。
31年8月末には任期満了で、選挙は既定の事実である為、進歩党はいま一度、民党を標梼する必要がある。
つづく
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