1897(明治30)年
7月
有島武郎、東京の内山鑑三を訪問。
7月
~8月。ハンガリー、ブダペシュトの建設工業・煉瓦工場で大規模ストライキ
7月
ドイツのヴィルヘルム2世、ロシア訪問。ニコライ2世にドイツの膠州湾租借に同意を求める。反対。
7月初め
(推定) 寺田寅彦、漱石を訪ねる。
高知県出身学生のうち、試験に失敗した2、3人のために「点を貰う」委員として、初めて訪ねて来る。
「寺田寅彦は、親類につながる生徒が、漱石の英語に落第し、落第すれば実家からの学資援助が絶たれるかもしれぬというので、交渉に来る。この時、「俳句とは一体どんなものですか」と尋ねると、「俳句はレトリックの煎じ詰めたものである」と答えたという。」(荒正人、前掲書)
7月5日
日本橋区北槙町池の尾で「労働組合期成会」発起会開催。職工義友会を労働組合期成会と改称。片山潜・高野房太郎・鈴木純一郎・城常太郎・沢田半之助ら。
8月1日、労働組合期成会第1回月次会、高野房太郎は幹事に選出。
12月、会員1200人を有する鉄工組合結成及び機関誌「労働世界」刊行、労働組合運動は軌道に乗る。
労資協調主義。職工義友会・労働組合期成会の「職工諸君に寄す」・「設立趣旨」は穏健な労働組合運動を主張。「職工諸君に寄す」は、「貧富平均論は云ふぺくして行ふべきことにあらず」とし、革命・急進を排し、「堅く集りて散せず、社会進化の大勢に伴ひて内健全なる思想を養ひ、外着実なる行動をなし、以て外人に対し無情の雇主に対し、将た又弊風の矯正に務めんか、世間諸君の意の如くならざる者幾何かあるべきや」と、漸進的改良を唱え、「設立趣旨」も、「産業の発達は資本と労働の並進に求むぺく、其調和によりて振興を得ぺし」という。
内地雑居(翌1899年)に対する強い警戒心。「職工諸君に寄す」の冒頭は、「来る明治三十二年は実に日本内地開放の時期なり」で始まり、予想される外国資本の侵入に対する労働者の覚悟を促し、「設立趣旨」にも同様の文言がみえる。労働組合運動の出発点で、外国資本への警戒が労働者の団結を訴える根拠の一つとされる事は、日本資本主義の国際的地位の低さを示し、労働組合運動内部に国家的危機感の訴えに同調する性質を内包させることになる。
期成会の労資協調主義は、この外国資本に対する警戒心により一層の説得性を帯びる。1898年、神戸の沖仲仕・陸仲仕の両組合は、「清国労働者非雑居期成同盟」を作り、中国人労働者の内地雑居絶対禁止を主張、組合の演説会に高野房太郎も出席。これは巨大外国資本の侵入という以上の幻影であったが、こうした幻影が日本の労働組合運動出発の一つの有力な推進力であった事は注意しておく必要あり。しかもこの同盟結成の背後に県知事の指示があったとみられ、政府が内地開放問題をとらえて労働者を意識的に排外主義の方向へ向けさせたのではないかと疑われる。
7月5日
子規、宮沢義喜・宮沢岩太編『俳人一茶』の巻末附録に「一茶の俳句を評す」を掲載。
7月9日
漱石、妻鏡子を伴って上京、新橋駅着。9月7日までの夏休み。在京中は麹町内幸町の貴族院官舎の中根宅や中根家が借りた鎌倉材木座の別荘で過ごす。
「彼は「冷然として」その父の「困苦を傍観し」はしなかったが、その死に際して涙すべき理由を別に持たなかった。とにかく今まで三十年の生涯を、金之助は父にも誰にも保護されたという記憶を持たずに、ひとりで歩いて来たのである。その同じ三十年が、小兵術直克にとっては、町方名主という安全な世襲の地位から、息子の仕送りに頼らねはならぬ孤独な老爺への転落と崩壊の時間を刻んでいたということを、思いやる余裕は金之助にはなかった。「自宅の前から南へ行く時に是非共登らなければならない長い坂」につけた夏目坂という名前と、井桁に菊の家紋にちなんだ喜久井町という町名だけが、父の「文明開化」の世にのこした遺産であった。
金之助は上京しても馬場下の夏目家には泊らず、虎ノ門の中根重一の官舎に泊った。中根家では、毎年夏になると一家で鎌倉材木屋の伯爵大木喬任の別荘を借りて避暑に行くのが例だったので、官舎は無人であり、気が置けなかったからである。」(江藤淳『漱石とその時代1』)
(日付不詳) 漱石の妻、鏡子が流産。
鏡子が鎌倉に避暑中の中根家の家族と共に保養することになったので、漱石は東京・鎌倉間を往復して暮すようにり、この間、再び円覚寺を訪ねる。
7月16日
子規、河東碧梧桐と高浜虚子に宛てて、漱石歓迎の句会の通知状を出す。
「来る十八日(日曜)午後より拙宅に於て臨時小集相催度、御光来願上候。漱石がやりたきう故催し申候。・・・虚子には未だ逢はず、下宿屋をやるとの事故小生は忠告致しやり候」(河東秉五郎宛)
「最近になってK(*虚子)が下宿営業に取りかかつだといふのも、もともと兄夫婦を助けるのが主意であり、其上自己の文芸上の天分について自信を持つてゐるKは下宿営業といぶやうな社会的に賎しい職業に携はることを却つて痛快に考へたのであるが、同時にさういふ境界は全く他と没交渉な天地であつて、其処には全然自由な自分を見出すといふことも其決心を促す有力な動機の一つであつたのである」(『柿二つ』)
7月18日
「東京日日」の台湾統治批判。
「新領土を治むる業容易ならず。・・・しかるに実際この難衝に当たりたる人物はいわゆる内地の食い詰め者にして、しかも中等判任官くらいの人物や、有髯の破落戸漠(ごろつき)を暴用して責任の地位に置きたるなれば、その枇政の挙げて数うべからざるは必然の結果なるが、この頃上京中なる高官連中といえどもほとんど台政についてはなんら定見なく」「単に武の台湾となり了らん」
7月18日
午前、漱石、第五高等学校英語科へ就職の件で、清明館(本郷区龍岡町4番地)へ赤木通弘を訪ねる。午後、漱石が上京したので開かれた子規庵臨時小集句会に出席。運座2一回。子規・碧梧桐・佐藤紅緑・石井露月・佐藤肋骨・歌原蒼苔・岩尾瀾水・中村楽天・水湖・五苗木飄亭・福田把粟。
7月22日
鉱毒被害民運動家、鉱毒地復旧請願書の町長調印を足利町役場でもらう。郡役所に行ったが、郡長は宇都宮に行って留守。
7月24日
梁田、御厨(みくりや)、山辺の各村役場を訪問し鉱毒被害地復旧請願書への各村長の調印をもらう(足利・安蘇・下都賀郡の各被害地の町村長の調印も、他の運動家が8月3日までに得る
7月23日
独仏協定。パリ、西アフリカ・仏領ダホメと独領トーゴランド境界線設定
7月24日
袁世凱、直隷按察使に任じられ、督弁軍務処の統制下に入る
7月24日
アメリカ、ディングリー関税法成立
7月29日
乃木希典台湾総督、高等法院長高野孟矩の非職を上奏する電報。総督府民政局及び拓殖務省上層部人事に絡む政治的措置。高野は直ちに松方首相・高島鞆之助拓殖務大臣兼陸軍大臣・清浦奎吾法相・乃木総督に、「台湾にも憲法は及ぶ、台湾の裁判官も憲法上の裁判官」とする電報を送り、8月1日、非職に対する抗議電報。
7月30日
狩野亨吉、漱石を訪ねる。
7月31日
与謝野鉄幹(24)、師・直文の反対を押し切って、三度目の朝鮮に渡る。欧州留学資金を得るため。禁じられている朝鮮人参売買に着手し失敗。翌年2月帰国。
7月31日
漱石、子規宅を訪問。
7月下旬
(日不詳) 漱石、子規・五百木良三(飄亭)と共に、神田川(神田明神下)で鰻を食べる。
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