1897(明治30)年
9月
子規、臀部2ヶ所の穴があき,膿が出始める。
9月
坪内逍遙「戯曲・沓手鳥孤城落月」(「新小説」)
9月初旬
宮崎滔天(26)、香港から横浜港に帰着。横浜の陳少白の家に行き、前月半ばに欧米から横浜に到着していた孫文に会う。
9月初旬
漱石、鎌倉の鏡子を見舞い、円覚寺帰源院に釈宗活を訪ねる。
9月1日
原敬(41)、外務省退官。16日「大阪毎日新聞」編集総理(約1年間)。31年9月27日社長(~約2年2ヶ月)。
〈これまでの略歴(Wikipedia抜粋)〉
1856年3月15日(安政3年2月9日)生まれ。父直治42歳・母リツ32歳。原家は近江浅井氏の流れを汲み、江戸期に入ってから盛岡藩南部氏に仕えた家系で、祖父原直記は家老、父原直治は側用人を務めた。禄高は、父原直治が家督を相続した時点で227石。
慶応元年(1865年)に父が没し、家督を継いだ兄平太郎は12歳であった上に、戊辰戦争以降の盛岡藩の苦境もあり家禄が10分の1まで減らされ、生活は一気に苦しくなる。母リツは菓子商売などで生計を立てた。
明治3年(1870年)1月(旧暦)より藩校作人館で学び、翌年12月に上京。那珂梧楼の私塾を経て、旧藩主南部氏が運営する私塾共慣義塾に入学するが長く続かず、旧会津藩士岸俊雄の私塾苟新塾に移る。しかし盛岡の家が盗難にあい、学費に困った原は明治5年(1872年)7月に一旦郷里に戻る。9月、海軍兵学寮を受験するが失敗、冬にフランス人宣教師が運営する食費と宿泊費が無料のラテン学校に移る。
新暦1873年(明治6年)4月、受洗。横浜で活動していたフェリクス・エヴラール神父のもとに居を移し、互いに漢書やキリスト教書を教えあう。翌年からは布教活動に加わり、1年間新潟に滞在。
1875年(明治8年)5月、エヴラールと別れて盛岡に戻る。このころ、原家は家禄を奉還し、その際に受けた一時金をもとに養蚕を手掛け、再び原を遊学させる余裕が生まれていた。再度の上京に伴い、原は分家して戸主となり、平民籍に編入された。
再上京後は箕作秋坪の英学塾三叉学舎で学び、1876年(明治9年)、司法省法学校を受験し、2番目の成績で合格。在学中も101名中10位と成績は良かったが、1879年(明治12年)2月に放校処分を受ける。寄宿舎の待遇改善を求めた行動に対する処分に抗議したこと(賄征伐)が理由とされる。同時に放校された陸羯南・福本日南らとしばらくは自堕落な生活を送るが、中江兆民の仏学塾でフランス語を学びつつ、山梨の民権派新聞『峡中新報』に「鷲山樵夫」の筆名で寄稿することで生計を立てるようになる。
同年11月、郵便報知新聞社に入社。当初は翻訳を担当するが、翌年頃からは論説記事も手掛ける。原は、漸進的な民権拡張を求める官民調和論であり、急進的な民権論には批判的な、福沢諭吉系の言論人であった。
1881年(明治14年)5月、官僚の渡辺洪基が全国周遊旅行に出ることなり、原は要望して随行する。この133日間の遊説旅行で原は地方の政治・産業の実態を観察し、その模様を新聞に連載した。
しかし明治十四年の政変で大隈重信派が政府を離脱し、福沢の政府への影響力も大きく減退したことで、原の主張も次第に変化してゆく。まもなく大隈派が郵便報知新聞社を買収、矢野文雄を社長に据え、犬養毅・尾崎行雄らが入社すると、原の上司であった栗本鋤雲が退社、原も1882年(明治15年)1月26日に退社を紙上で宣言し退社する。
退社後は、外務卿井上馨の周旋により、4月24日発刊の大阪の政府系紙『大東日報』主筆に就任。高給を得るとともに大阪財界とも強いパイプを持つこととなり、この直前に発足した立憲帝政党にも入党する。しかし10月、路線を巡って幹部と対立し、結局7ヵ月で大阪を去る。
同年11月、旧友渡辺修一郎の紹介により外務省准奏任御用掛に任用される。外務省ではフランス語を使える人材が不足しており、外務卿井上馨にとって貴重な人材であった。
1883年(明治16年)7月、太政官准奏任御用掛として文書局に兼勤し、官報の創設に携わる。
同年10月、民権派が優勢である地方への政府巡回員派遣の提案が認められ、中国地方・西海道への巡察を行う。
11月、仏清間の関係悪化を背景に帰京を命じられ、領事として清国天津に派遣される。
この頃、薩摩出身の工部省大書記官中井弘の娘貞子と結婚し、藩閥グループの一員に迎えられる。
1884年(明治17年)の清仏戦争に際しては、多数の情報を報告し能力の高さを示す。
1885年(明治18年)3月、伊藤博文と李鴻章の天津条約締結交渉での伊藤の高い外交的技量に原は感銘を受け、伊藤も原の高い情報収集・分析能力を認めることとなる。
1885年5月、天津在勤中に外務書記官として第三共和制フランスのパリ公使館在勤を命じられ、8月に一旦帰国、10月に出国し、12月にパリに着任する。
1886年(明治19年)3月、公使館書記官に任じられる。駐仏公使蜂須賀茂韶はフランスのほか4カ国の公使を兼摂して多忙で、原は公使代理としても活動せざるを得なかった。
1887年(明治20年)、田中不二麿公使が着任し、兼摂国も2ヵ国となったため、負担は大きく軽減される。余裕ができた原はパリ政治学院の科目履修生として国際公法を学び、フランスに呼び寄せた妻の貞子との旅行に出かけることもできるようになる。
1889年(明治22年)4月、農商務省参事官に転じる。これは外務大臣大隈重信が原を嫌い、農商務大臣井上馨が引き取ったことによる。
農商務省内では有力官僚前田正名と対立するが、1890年(明治23年)5月、陸奥宗光が農商務大臣に就任し、大臣秘書官兼参事官となった原と協力して前田派を一掃。その後、狩猟規則の制定、富岡製糸場の払い下げなどに関わる。
1892年(明治25年)3月、陸奥の大臣辞職に伴い、原も依願辞職する。
同年7月、第2次伊藤内閣が成立、陸奥が外務大臣に就任すると原は通商局長として外務省に復帰。大臣官房移民課長兼勤・省令審査委員、外務省取調局長を兼任し、領事裁判権の撤廃や外務省改革に従事、同省機構改革と外交官試験の導入を実施した。
1895年(明治28年)5月、外務次官に累進。病気の陸奥に代わって事実上の外相として活動するが、たびたび高熱を発して病床にふせる。
1896年(明治29年)6月、朝鮮国駐箚特命全権公使に任じられる。
同年10月、第2次松方内閣が成立し、大隈重信が外務大臣となったため、辞職を決意して帰国。
1897年(明治30年)2月、駐箚公使を免じられ、9月に依願辞職。
この間、1896年11月に妻貞子の不貞が発覚し、別居。盛岡から上京してきた母リツ、姪栄、妾菅野浅と同居する。
1897年9月、大阪毎日新聞社より編集総理(編集長)として招聘され、年俸5000円という破格の待遇で編集長を務める。一食15銭の牛肉弁当を食べて毎日遅くまで働き、「ウシベン」と呼ばれる。
1898年(明治31年)9月、第3代社長に就任。部数を伸ばす成果を上げるが、一方で中央政界復帰を忘れず、毎月のように上京して政界要人と連絡を取る。
9月4日
漱石、子規庵句会に出席。
9月5日
朝鮮、「皇城新聞」発刊
9月5日
漱石、子規に葉書で新橋発の時刻を知らせる。
子規は、
秋の雨荷物ぬらすな風引くな
萩芒来年逢んさりながら
と詠む。
漱石は、
月に行く漱石妻を忘れたり
と詠む。"
9月6日
朝鮮、朝鮮政府、ロシア軍人14人を軍事顧問として4千人の軍隊を編成
9月6日
子規、漱石に宛てて手紙。
秋雨蕭々(しようしよう)。汽車君をのせてまた西に去る。鳥故林を恋はず遊子客地に病む。万縷(ばんる)尽さずただ再会を期す。敬具。
九月六日 子規
漱石詞兄
9月7日
漱石、午前6時(推定)、新橋停車場から1人で熊本に向う。午後11時22分、神戸停車場着。翌8日午後1時17分、広島停車場着。手品港から門司港に向う。9日夜、門司港に着く。門司泊。10日午後、熊本市に帰る。
9月8日
松方首相から乃木台湾総督に対し総督府高等法院長高野孟矩の上京命令。高野は上京し、首相・拓殖務相・法相と面会するも、非職の理由説明なし。
9月8日
ハンガリー、独立社会党結成。社会民主党急進派ヴァールコニー・イシュトヴァーン、民主的綱領打出す。運動拡大。弾圧強化。
9月11日
漱石、飽託郡大江村401(漢詩人落合東郭の留守宅)に転居。
「父の死によって毎月十円の仕送りをしなくてもよくなった・・・・・。経済的余裕のできた金之助は、第五高等学校三年生の股野義郎を、書生として別棟の小さな離れに寄寓させた。股野はのちに『吾輩は猫である』の多々良三平のモデルになった人物である。稀代の大食漢で、ユーモラスな言動が多く、金之助の孤独を慰めた。」(江藤淳『漱石とその時代1』)
「皇太子(後の大正天皇)の傅(ふ)育官をしていた漢詩人落合東郭の留守宅である。漱石は大江村に住んでいた頃、「この里や柿甘うして夫子住む」と贈り、藤井乙男は「この里や水清うして夫子住む」と贈る。二、三回会ったらしい。(藤井乙男) この家は、昭和四十七年、水前寺公園隣の動物園跡に移され、保有されている」(荒正人、前掲書)
9月11日
漱石、子規に宛てて手紙。
小生海陸無事、昨十日午後到着致候。途上秋雨にて困却す。当地残暑劇(はげ)し。
今日ぞ知る秋をしきりに降りしきる
小生宿所は表面の通。
9月12日
仏、イレーヌ・ジョリオ=キュリー、誕生。パリ。
9月15日
この日付け子規の漱石宛手紙。小説執筆中の報告をして、「少しにても元気ある内に五枚にても十枚にてもこころみたく存をり候」と。
拝復 御安着奉抃賀(べんがしたてまつり)候。小生爾後無異状(いじようなく)候。近来たのまれて小説とやらをものしをり候。昨夜もそれがために夜をふかし候処、今日ハぼんやりして具合悪く困(こまり)をり候。これらの仕事ハよほど身にさはるやう被思(おもわれ)候へども、昨年の小生と今年の小生とを比較致候へば来年の小生ハ大方推し測られ申候。一日をのばせバ一日の衰弱をます者ならバ、少しにても元気ある内に五枚にても十枚にてもこゝろみみたく存をり候。今日のやうな秋雨蕭々たる日熟すこしありて脊(せ)寒き夕などハあひかはらずはかなき事ばかり考へてひとりなやミをり候。不乙。
九月十五日 規
金兄
咳 に く る し む 夜 長 の 灯 豆 の 如 し
9月中旬(推定)
寺田寅彦、夏休みに作った俳句を20~30句持って漱石を訪ねる。その後、毎週2、3度通って来る。その次に訪ねた時、短評を加え、2、3の句の頭に○や○○が補され、また類句を書き入れてある。
9月頃(日不詳) この頃から、漱石、寺田寅彦(寅日子)・厨川肇(千江)・平川草江・蒲生栄(紫川)・白仁三郎(白陽、後の坂元雷鳥)らに俳句を教え、連座を開くようになる。(蒲生紫川・寺田寅日子・厨川千江・白仁白楊は四天王と見なされる。)
9月16日
板垣退助、伊藤博文に書簡を送り、松方内閣の失政を攻撃、伊藤博文に政弊改革に乗り出すよう求める。
9月24日
米、作家フォークナー、誕生。
0 件のコメント:
コメントを投稿