1897(明治30)年
5月
この頃、列強の紡績工場が相次いで中国に進出。アメリカの鴻源沙廠、イギリスの老公茂沙廠、ドイツの瑞記沙廠など。
5月
子規の病状悪化、重態。
「四月下旬、腰部の再手術をした。しかし体調はやはり思わしくない。熱は三十八度台前半から三十九度なかばの間を上下するばかりだ。五月二十八日に解熱剤を服用したところ、体温は急激に三十五度台まで落ちて一時失神した。
五月二十九日には医師がやってきて、手術痕から一合余もの膿をしぼりとった。
(略)
六月からひと月ほど、まったく身動きがとれなくなった子規は、妹律だけでは手が足りず、看護婦を頼むことになった。二十歳の若い看護婦の費用は、加藤拓川にすがった。のみならず医師の診察料など半年間で三十円ほどの不足があり、その分も拓川の援助をあおいだ。」(関川夏央、前掲書)
5月
日本からメキシコに初の移民団(榎本移民団)到着。34名がチアパスに入植、3年後に失敗解散。照井亮次郎らは残留し定住。
5月1日
東京事務所に詰めていた栃木県足利郡(旧梁田郡)久野村在住の室田忠七の鉱毒事件日誌
「農商務省ニ出頭シ大臣ニ面会ヲ求メルモ、大臣ハ出省ナキニヨリ秘書官ニ面会シ早ク調査会処アランコトヲ願フ。又農務局長藤田四郎君ニ面会シ、被害地検分ニ出頭アランコトヲ願フ。局長曰ク、最早本官ハ担当ノ技師ヲ出シテ調査セシメタレハ検分至サストモ事情ハ明カニ知レリト答フ」
5月4日
「(内務)省ニ出省シ後藤衛生局長ニ面会シ、調査会ノ結果ヲ尋ヌ。又土木局長長古市君ニ面会シ又調査会ノ結果ヲ尋ヌ。午後三時退省ス」
5月8日
日本、清国よりの賠償金として274万余ポンドをロンドンで受領。
5月9日
細井和喜蔵、京都・与謝郡加悦町に誕生。
5月10日
フィリピン、ボニファシオ兄弟、銃殺刑。同日、アギナルド政府はカビテ州を放棄、ブラカン州へ逃避。
5月11日
島村駐ハワイ公使、ハワイ外相に日本人移民の上陸拒否を抗議。
5月12日
「非職群馬県知事石阪昌孝」、在職中に陸軍充員召集の際に部隊の符号を新聞に掲載したとして「譴責」。
5月14日
英、イタリア人ググリエルモ・マルコーニ(23)、ワイアレス・テレグラフ・アンド・シグナル社設立。
5月16日
東京事務所に詰めていた栃木県足利郡(旧梁田郡)久野村在住の室田忠七の鉱毒事件日誌
現地の早川田雲龍寺事務所で宮内省への出願について協議する。
5月17日
名古屋、御園座が開場。
5月22日
藤山愛一郎、東京に誕生。
5月25日
東京事務所に詰めていた栃木県足利郡(旧梁田郡)久野村在住の室田忠七の鉱毒事件日誌
「(内務省に)出頭シ、被害地ノ土地改復ノコト陳情セントスレトモ、大臣ハ出省ナキトテ中村次官ニ面会ヲ求レトモ、次官モ多忙ニテ面会ヲ得ズ。依テ木内書記官ニ面会シ右ノコトヲ陳情ス」
5月27日
政府、鉱山監督署長南挺三名で古河市兵衛に鉱毒予防工事(37項目)命じる。知識人・新聞社は予防令に期待を持ち、支援・関心も下火になる。
工事完了後、南挺三、古河鉱業足尾銅山所長就任。実際は、脱硫塔は機能せず、煙害はひどくなり、明治34年暮れには上流の松木村は廃村。
一方、地租条例第20条により明治31年免訴処分が行われる。群馬県邑楽郡では衆議院議員選挙権喪失者80%、公民権喪失者30%強となる。
5月27日
東京事務所に詰めていた栃木県足利郡(旧梁田郡)久野村在住の室田忠七の鉱毒事件日誌
「(農商務省に出頭シ)大石次官ニ面会シ停止ノ処分ヲ請求セントセシ処、相反シテ次官ヨリ鉱山主古河ニ対スル命令書且ツ政府ノ処分ヲ惣代等ニ報道セリ。依テ惣代ハ次官ニ向テ、今日ハ鉱業停止ノ陳情ニ出省セシ処、此ノ如キコトニハ被害地人民ト能ク相談スべシトテ退省セリ」
その後再び農商務省に出頭して
「農商務属磯辺館親愛君ニ面会シ、先ニ大石次官ガ古河ニ対スル命令書ノ中ニ鉱毒被害地ノ改復ノ文字アルヤ否ヲ尋ネシ処、命令書中ニハ此如キコト無シト言フニ付一同退省セリ」
5月28日
子規編集の『古白遺稿』刊行。
5月29日
漱石の畏友米山保三郎、急性腹膜炎で没。
「六月八日付で在仙台の斎藤阿具にあてた手紙に、金之助は書いている。
《・・・米山の不幸返す返す気の毒の至に存候。文科の一英才を失ひ候事、痛恨の極に御座候。同人如きは文科大学あつてより文科大学閉づるまで、またとあるまじき大怪物に御座候。蟄竜(ちつりゆう)未だ雲雨(うんう)を起さずして逝く。碌々の徒(と)或は之を以て轍鮒(てつぶ)に比せん。残念。
《小生只駑齢(どれい)に鞭(むちう)つて日暮道遠の嘆あり。御憫笑可被下候。先は右当用のみ。早々頓首》
米山は、大学は哲学科を出たが卒業後数学に転じて、大学院で空間論を研究していた。彼は金之助のことを、「あの男はふだん黙っているが、いざというとき相談すればかならず事を処理する力を持っている」と評していた。天然居士の死が、金之助の内部にひとつの空洞をうがったことは疑えない。のちに彼は、
空に消ゆる鐸(たく)のひびきや春の塔
という句を詠んで米山を弔った。」(江藤淳『漱石とその時代1』)
「思えば十九歳の秋、一夜米山保三郎と座談した子規は相手の学識と見識に感じ入り、哲学ではどうころんでもかなわぬ男が世の中にはいると思い知って、志を文学に転じた。」(関川夏央、前掲書)
つづく
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