1898(明治31)年
1月13日
仏、作家エミール・ゾラ、ドレフュス事件について大統領宛て公開状を「オーローレ」紙上に発表。
1月16日
椎名悦三郎、誕生。
1月16日
落合直文(「萩の家主人」名)『翁の小言』(『日本』)。
「なぜ『日本』では、漢詩と俳句だけが重視されて、歌はあまり顧みられないのかという問いを立てる翁に、それは「載すべき歌のなきがためならむ」と「余」が応じると、「文苑欄をひろげ、おもく、歌をもてなさむには、おのづから、よき歌もあつまりなむ」と翁が言う、という寓話であった。
この記事にただちに反応するかのように、一月三一日の『日本附録週報』には『青年歌人に告ぐ』という文章が「白雲」の筆名で掲載される。俳句の世界では「新派の効力殆んど一世を風靡」しているにもかかわらず、和歌の世界はまったく新しい機運がないので、「新元気を取って沈滞の気を掃」うべきことを「青年歌人」に呼びかける投書であった。」(小森陽一『子規と漱石 友情が育んだ写実の近代』(集英社新書))
1月17日
加藤唐九郎、誕生。
1月18日
福沢一郎、群馬県北甘楽郡に福沢仁太郎の長男として生まれる。福沢家は富岡の旧家で、祖父は富岡製糸場に関係し製糸業を営み、また富岡銀行を興した事業家であった。父仁太郎は明治学院で島崎藤村と同窓で、家業を継いだが西洋の事物に明るくハイカラな人物であったという。
県立富岡中学校から第二高等学校英法科へ進み、在学中ドイツ語教授登張竹風に芸術に対する感化を受け、また、彫刻に興味を抱き彫刻や油絵を独習した。
1月18日
漱石、小天の前田家から蜜柑と乾椎茸送られる
1月20日
元帥府条例、発令。大山巌・小松宮彰仁・山県有朋・西郷従道、元帥となる。
1月21日
明治音楽会。神田YMCA。
1月29日
康有為、第六上書。
1月30日
高野房太郎(29)、横浜・蔦座での労働問題学術演説会で「日本に於ける労働運動の特色」を演説。
2月
朝鮮、独立協会主催公開討論会。街頭での大衆集会(万民共同会)形式に発展。
2月
佐々木信綱「こころの華」(後、心の花)創刊。
2月
金子筑水「所謂社会小説」(「早稲田文学」)
2月
森鴎外(36)「審美新説」(「めさまし草」)
2月
子規、「俳句分類丁号」(句調類集)成る。
2月
鉄幹、事業に失敗失意で朝鮮より戻る。
2月
アンリ・マチス(29)、コルシカで風景画を描き「ラ・ルヴュ・ブランシュ」誌に連載。P.シニャックの「ウジェーヌ・ドラクロワカら新印象主義へ」を読む。
2月2日
大日本鉄道会社(現在の東北・高崎・常盤線)の機関方、「我党待遇期成大同盟会」を結成。助役の指示を土下座して聞くなどの人権闘争的側面。呼びかけ草案起草者ら解雇されるや一斉ストライキ突入。要求の大半が認められ決着。
2月4日
伊藤深水、誕生。
2月4日
山川浩、没。
2月5日
尾崎士郎、誕生。
2月6日
伊藤首相、板垣退助・林有造・片岡健吉・松田正久ら自由党領袖と会談、提携を進める。
2月6日
(露暦1月28日)ニコラーエフで大量検挙。200人以上。「南部ロシア労働者同盟」メンバ一斉逮捕。トロツキー(19)、故郷ヤノーフカからニコラーエフに向う途中で逮捕、ニコラーエフ監獄収監。3週間後、ヘルソン県の監獄に移され、3ヶ月目の終わる頃、オデッサの監獄に移される。ここで、アントニオ・ラブリオーラ(イタリア人マルクス主義者)の論文を読む。
2月10日
群馬の三井富岡製糸所、労働条件改定に反対して女子工員743人が15日までストライキ。
2月10日
幸徳秋水「紀元節を哀しむ」(「萬朝報」)。
この月、幸徳秋水、中江兆民の紹介で「萬朝報」論説記者として入社。国民協会系大岡育造の「中央新聞」がそっくり伊藤博文に買収されたため。
2月11日
清英、揚子江沿岸不割譲の交換公文。
2月11日
「神戸新聞」、創刊。
2月12日
子規「歌よみに与ふる書」(『日本』10回、~3月4日)。短歌の革新運動に着手。
「・・・紀貫之は下手な歌よみにて、「古今集」はくだらぬ集にこれ有り候」
「・・・・・これは万葉集以来の千年の眠を覚そうとした和歌革新の論陣であり、烽火のようなものであった。
「再び歌よみに与ふる書」では、「貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集」だと断言。「三たび歌よみに与ふる書」では、歌人の不勉強を警鐘、他の文学に対する理由なき優越感を批判する。「四たび・・・・・」では、古来名歌とされる歌をとりあげて批難する。「八たび・・・・・」では、『金塊和歌集』の実朝の歌を推賞、「九たび・・・・・」では、実朝以外に西行などの客観写生の歌を推賞している。こうした批判は歌人たちの偶像破壊でもあった。
そして、漱石に向って、
歌につきてハ内外共に敵にて候 外の敵ハ面白く候へとも内の敵にハ閉口致候 内の敵とは新聞社の先輩其他交際ある先輩の小言ニ有之候 まさかにそんな人に向て理窟をのぶる訳にも行かずさりとて今更出しかけた議論をひつこませる訳にも行かず困却致候 併シ歌につきてハたびたび失敗の経験有之候故今度ハはじめより許可を出願して出しはじめしもの此上ハ死ぬる迄ひつこミ不申候 (『子規全集』一九巻)
とあり、内外、とくに内の敵をかかえての短歌革新である。」(中村文雄『漱石と子規、漱石と修 - 大逆事件をめぐって -』(和泉書院))
つづく
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