明治三十年十二月廿四日に、根岸庵で始めての蕪村忌を行った。この時紀念のため一同写真を撮ったが、僕等二三人は遅れて行ったので写真の間に合わなかったのを、君は大変気の毒がって僕等のためにわざわざ撮り直しをさせ、例の難儀な身を二度までも橡側へいざり出るなど、却々親切なものであった。その時は子規氏を真中に、右鳴雪翁、露月、木罔、左墨水、紅緑、森々、背が碧梧桐、胡堂、牛伴、繞石、愚哉、左衛門、前方李坪、四方太、秋竹、東洋、春風庵、僕、虚子で都合二十人、京都の四明から遥々贈って来た天王寺蕪の風呂吹の御馳走で二回の運座をしたのである。この時の君の姿は散髪頭で蒼いというよりも寧ろ白い方の顔色で鼻下と顖のところに疎らな髭があって未だそう大した衰弱でもなかった。(直野碧玲瓏 故正岡子規氏)
大杉栄とその時代年表(224) 1897(明治30)年12月1日~20日 中江兆民、国民党結成 労働組合期成会鉄工組合発会式 漱石、狩野亨吉に熊本五高への来任を懇請 ロシア軍艦、旅順港に強行入港 より続く
1897(明治30)年
12月22日
漱石、狩野亨吉宛手紙に、第五高等学校就任を承諾、二度電報を貰い安心したこと、中川元校長も喜んでいることを述べ、赴任の事務上の手続きや宿所について説明する。
翌23日、再度狩野亨吉宛に手紙。担当学科は初めに論理、その後で英語を受け持って貰うのがよいだろうと伝える。「順路は東京より徳山迄通し切符御買求めの上徳山より門司迄滊船夫より九州鐵道の事」と書き添える。
12月24日
子規庵で第一回蕪村忌を開催。碧梧桐、鳴雪、虚子ら20名が参加。
12月24日
漱石の24日付け狩野亨吉宛手紙。
「最後に一言申上候は小生は年末(二十七八日頃)より来年三四日頃迄何方(いづかた)へか旅行致す心算に有之。尤も大兄御来熊の日限により、また御問合せ等の有無により、或は全然旅行を廃する決心〔略〕小生は旅行をやめても大兄の早く御着になる事を希望致候〔略〕二十八日午前中に何等の御打電なきときは、来年六日頃迄には当地へ御着なきもの、又小生の其間御用なきものと見做し旅行可致候」(明治三十年十二月二十四日付)。
12月25日
朝鮮、独立協会禁止
12月25日
第11議会、24日開会。進歩党・自由党・国民協会・実業同志倶楽部提出の内閣不信任案審議入り。松方首相、衆議院を解散。
27日、閣内不統一で、第2次松方内閣総辞職。
12月25日
第11議会、侯爵久我通久・子爵谷干城ら5名発議、児島惟謙ら78名賛同、「台湾総督府判官の非職に関する質問」書提出。
12月25日
志賀潔、赤痢菌を発見。
12月27日
英国、韓国総税務司ブラウンの解雇に抗議し、軍艦7隻を仁川に派遣。韓国政府、ブラウンの解雇を撤回。
12月27日
12月27日頃から1898年1月4日頃まで、漱石、山川信次郎と玉名郡小天(おあま)温泉(現、天水町小天湯の浦八久保)に遊ぶ。「草枕」の素材となる。
小天は、熊本市から二つの峠を越えた北西約14km(熊本市中心からは約20km強)に位置し、その峠から有明海になだれこむ、丘陵から海辺の平地にいたる村で、古くから蜜柑の産地として知られていた。
漱石らが投宿したのは、熊本県天水町小天温泉字湯の浦の旧家前田家の別荘。
山川は前年11月に湯の浦を訪ねており前田家の人々とは顔見知りになっていた。
前田家の当主前田案山子は、もと肥後細川藩の郷士で、明治初年から自由民権運動に身を投じて中江兆民などと親交があり、明治23年7月、第1回衆議院総選挙では佐々友房とともに熊本第1区から代議士に選出された。
西南戦争の際、佐々は薩軍に投じて中隊長になったが、前田案山子は玉名郷の区長をつとめており、郷備金を狙う薩軍により牢屋にぶち込まれたことがある。
湯の浦の別荘は、案山子が来遊する政界の同志を泊めるために、村の共有温泉に隣接した所有地の竹薮を伐り開いて造ったもので、その後、増築を重ね、温泉宿の体裁をととのえるようになったもの。
漱石らが通されたのは、この宿で一番上等とされていた三番という部屋で、この部屋は、政界の名士が来たときに泊めるために、本宅から移築したもので、飾りつけなどもなかなか凝っていた。
前年に不縁になって実家に帰っていた前田家の娘卓(つな)が、滞在する漱石らの世話をする担当となった。卓は、やさ男で万事女房役の山川と「じぐやくばり(あばたの配置)」のいい男性的な漱石の対照を評して、「三番の御夫婦さん」といった。
漱石が卓に持ったイメージは、『草枕』の「那美」の風貌に窺われる。
「口は一文字を結んで静(しずか)である。眼は五分のすきさへ見出すべく動いて居る。顔は下膨(しもぶくれ)の瓜実形で、豊かに落ち付きを見せてゐるに引き易へて、額は狭苦しくも、こせ付いて、所謂富士額の俗臭を帯びて居る。のみならず眉は両方から逼つて、中間に数滴の薄荷(はくか)を点じたる如く、びくびく焦慮(じれ)て居る。鼻ばかりは軽薄に鋭どくもない、遅鈍に丸くもない。画にしたら美しからう。かやうに別れ別れの道具が皆一癖あつて、乱調にどやどやと余の双眼に飛び込んだのだから迷ふのも無理はない。
「それだから軽侮の裏に、何となく人に縋(すが)りたい景色が見える。人を馬鹿にした様子の底に慎み深い分別がほのめいてゐる。才に任せ、気を負へば百人の男子を物の数とも思はぬ勢の下から温和しい情けが吾知らず湧いて出る。どうしても表情に一致がない。悟りと迷が一軒の家に喧嘩をしながらも同居して居る体だ。此女の顔に統一の感じのないのは、心に統一のない証拠で、心に統一がないのは、此女の世界に統一がなかつたのだらう。不幸に圧しつけられながら、其不幸に打ち勝たうとして居る顔だ。不仕合な女に述ない。」(『草枕』)
この頃の前田卓の置かれた状況は、、、
植田耕太郎と永塩亥太郎との二度の離婚によって、少女時代からの夢が無惨に破れ、「婦人の地位人生の味気なき」思いを深くかみしめた時期である。長男だけが全財産を受け継ぐという家制度への反撥から、長男下学と財産分与問題で争ってもいた。
さらにもう一つ、父案山子の妾の問題があった。卓が小天に戻ったとき、別邸には、卓とさほど年齢の違わない父親の愛人(林はな)が同居していた。政治活動から身を引いた案山子は、はなを東京から小天に連れ帰った。二人の間にはすでに、明治28年に利子(翌年死去)、30年には寛之助が生まれており、そして漱石が年末年始に訪れた直後の31年1月22日に利鎌が生まれる。卓たちの母親は存命中である。
元の夫の永塩の女性問題に失望して戻ってきた実家でもまた、同じことが繰り返されている。幼いときから尊敬していた父、民権家の、しかもその指導者であったはずの父親の、その姿を見る無念。
けれども卓は、そうした思いを胸にひめて、前田家の長女のとして家事を取り仕切っていた。
漱石と出会った当時、29歳の卓はこのような状況にあった。生来の強さと、養われてきた女権意識と、それらを押しつぶす男たちや世間との葛藤の最中にあった。まさに「心に統一がない」(『草枕』三)姿である。そして漱石が描く那美も、そのような孤独や虚無を抱えつつ、それでしおれるのでも悟りきるのでもなく、強い反撥心を持つ女のとりどりの姿だ。この「不幸に圧しつけられながら、その不幸に打ち勝とうとしている顔」をもつ那美の光と影は、卓の光と影に重なってくる。
夏目鏡子、松岡譲筆録『漱石の思い出』の中に、漱石と山川信次郎が帰るときも、お金のことでもめた様が次のように記されている。
「その帰る時のこと、二人の茶代が五円、女中の気付が一円、姉さん〔卓のこと〕には袖口代にとあって三円包んであったそうですが、姉さんはまだそんなものを客からもらったことがないので、顔を赤らめてかえしますと、せっかくやったものをかえすものもないだろうという剣幕だったということです」。
漱石と山川は、特に卓に世話になったことを思い、それへの感謝として「袖口代」という名目でチップをはずんだのだろう。当然卓は、とんでもない、受け取れないといい、癇癪持ちの漱石がすごい剣幕で押しつけた。漱石らが訪れたのは、民権家たちがひんぽんに出入りしていたころから、すでに十数年後のことである。その時期でもなお、旅館業という意識が持てなかった。峠の茶屋のおばあさんがいう、「村のものもちで、湯治場だか、隠居所だかわかりません」である。その別邸に漱石と山川はやって来た。案山子はまさに隠居してこの別邸に住んでおり、離婚して実家にもどってきた卓もまた、本邸ではなくこの家に暮らしていた。
お正月だというのに漱石が前年六月に結婚したばかりの妻を熊本に一人残して出かけたのにはわけがある。結婚して半年後、二人が初めて迎えたお正月でのことだ。まだ二十歳のうら若い鏡子夫人はせっせと料理を整えたが、手慣れないこともあり、客に出す料理が足りなくなってしまった。同居していた長谷川が「交際家」で、教え子らの来客が多かったせいである。お正月とあって、仕出し屋も休み。とうとう漱石は体裁が悪いと怒りだした。これに懲りて、「正月には家にいないに限るとあって、次の年から正月へかけて、たいてい大晦日あたりに旅行に出ることになりました」(前掲書)。この旅行は、その最初の実行だった。
12月27日
二葉亭四迷、官報局依願本免官。この年7月二俸給となり月給55円となる。25日萬朝報黒岩涙香に面会、翌年2月から入社の内諾得るが、翌年1月には断られる。
12月30日
伊藤博文に組閣命令が下る。伊藤は、大隈重信・板垣退助に入閣を要請するが、進歩党・自由党の猟官(内相ポスト)要求が過大なため、交渉を打ち切る。
この年、子規に送った漱石の句稿
一月 句稿二十二 二十二句
二月 句稿二十三 四十句
四月 句稿二十四 五十一句
五月 句稿二十五 六十一句
十月 句稿二十六 三十九句
十二月 句稿二十四 二十句
つづく
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