2024年8月23日金曜日

大杉栄とその時代年表(231) 1898(明治31)年3月6日 ドイツ、膠州湾租借条約締結 〈ドイツの中国植民地の歩み(1)〉 第一次アヘン戦争(1840~42年)~膠州湾占領計画承認(1896年12月22日)

 

ヴィルヘルム2世

大杉栄とその時代年表(230) 1898(明治31)年2月12日~3月5日 井伏鱒二生まれる 朝鮮独立協会、高宗皇帝に上疏 漱石、後年『草枕』に採用する四編の詩を作る シンガポールに滞在する日本人600人中400人は娼妓 東京市の不就学率40% ロシア社会民主労働党創立 より続く

1898(明治31)年

3月6日

ドイツ、膠州湾租借条約締結。膠州湾一帯(青山含む)99ヶ年租借。山東省内鉄道(膠済鉄道:膠州湾~済南)敷設権・鉱山採掘権獲得。


〈ドイツの中国植民地の歩み(1)〉

第一次アヘン戦争(1840~42年)と南京条約の締結(1842年)は、3億5千万人を抱える市場開放を意味するものとして、ドイツ諸国の経済界・知識人層に大きな関心を引き寄せた。ハンブルク商人は、3隻の商船を派遣し、ケルン商業会議所はイギリスが中国市場を独占させないように、プロイセン政府に商業艦隊の派遣を要求した。ザクセン政府は、プロイセン政府にドイツ関税同盟に配慮したうえで中国沿岸諸港に領事館を設置するように提案した。国民経済学者リスト(Friedrich List)も、南京条約を「世界貿易にとっての大きな出来事」であり、「ひょっとしたら、少なくとも目下の帰結にかかわることは、アメリカ大陸の発見以上に大きな出来事」であると見て、ドイツの輸出経済にとってのこの大きな機会を逃さないようにと訴えた。

しかし、プロイセン政府は、こうした意見に対して懐疑的であった。理由は、①プロイセンの海軍力は、海上ではイギリスと軍事的に競合し得ない、②ハンブルクのザクセン領事、さらに中国へ現地視察されたグルーベより、南京条約が中国の市場開放に対する影響は限定的であり、イギリスでは過大評価されていると報告されたから。

結局、第一次アヘン戦争以後、プロイセン・ザクセン・ハンブルクは、中国沿岸諸港で活動する商人を領事として任命するにとどまった。

第二次アヘン戦争(1856~60年)とその後に清朝政府とイギリス・フランス・アメリカ・ロシアの間で調印された天津条約(1858年)は、再びドイツ諸国の商業界に中国への関心を高めることになった。

1843年の南京条約の善後条項では、全ての外国商人にイギリス商人と同様の待遇が与えられることが保証されていたが、天津条約ではその条項が欠けていた。ドイツ諸国の商業界の要求を受けたプロイセン政府は、元ワルシャワ総領事で、後に1878年まで内相を務めたオイレンブルクに、遠征艦隊を組織し、清・日本・タイとの通商条約を締結することを命じた。その遠征は、該当諸国の政府が通商条約締結を拒む場合には、他のヨーロッパ列強と共に、軍事的な示威行動をもってでも締結を目指すことが期待されていた。

しかし、プロイセン政府が、東アジア遠征に積極的な行動をとった理由は、当時、小ドイツ主義的な国内統一を進めるプロイセンの声望を高めるためであり、1861年9月2日に清と締結された通商条約は、プロイセン政府にとっては、主としてそのような政治的な動機づけによるものであった。

したがって、この時期でも政治指導層の対中国政策は限定的なものであった。オイレンブルクの東アジア遠征についても、拠点となる植民地候補として台湾が調査されたが、ドイツ拠点には気候の面から不適当であるという報告が残されただけだった。

1870年代以降になると、中国対外貿易におけるドイツ経済利害の比重が増し、ドイツの政界および現地外交官もそれを積極的に支援するようになった。

1855年には7社だった在中国ドイツ商社が、1877年に41社、1890年代には80社に増加した。1880年代半ばから10年の間に、中国対外貿易に占めるドイツの割合は2.5%から5.1%へと増加した。

対中国貿易の促進のために、1870年代半ば以降、在北京公使ブラントは、東アジア向け航路に国庫助成を行うように本国政府に要求し、それに応じた帝国宰相ビスマルクは、1884年に帝国議会で東アジア・太平洋向けの郵便汽船に国庫助成を行う法案を提出し、翌年にその修正案を通過させた。

1880年代に入ると、ドイツ重工業界も中国市場に大きな期待を寄せるようになった。それ以前のドイツの鉄道資材の主要な輸出市場はアメリカ合州国であったが、同国の国内産業の競争力が高まったことによって、ドイツ重工業界は新たな輸出市場を必要とした。また、軍需産業も国内における受注の減少に加えて、外交関係上の理由からロシア向け輸出の将来的な見込みが乏しくなっていたために、中国市場に大きな関心を寄せるようになった。実際、日清戦争の賠償金支払いのために受注が激減するまで、中国はドイツ軍需産業にとって最大の外国顧客であった。

また、ドイツ重工業への受注を促進するために、ドイツ公使館は、李鴻章や張之洞などの有力な清朝官僚の顧問として、ドイツ人鉄道技師や軍事インストラクターが雇用されるように働きかけていた。後の山東鉄道会社の青島事業部の主任となるヒルデブラントは、1892年以来、張之洞の下で鉄道建設に従事していた。

さらに、中国での大規模な鉄道建設事業の開始を見込んで、中国現地で鉄道事業向けの借款引き受けのための強力な金融機関の設立が進められた。これについては、中国のドイツ外交官およびビスマルクが働きかけ、そしてドイツ最大手金融機関の一つであったディスコント・ゲゼルシャフトの主導下で準備され、最終的にドイツの主要な金融機関が出資する形で、1889年2月にドイツ・アジア銀行(徳華銀行、資本金500万両、約2250万マルク)が設立されることになる。翌年には、この銀行が中心となって「対アジア事業シンジケート」も設立されている。

ドイツ政治指導層の間で、ドイツの中国拠点獲得が具体的に議論されるようになった契機は、1894~95年の日清戦争であった。

1894年11月初旬の旅順港陥落を目前に控えた時期に、ヴィルヘルム2世帝国宰相ホーエンローエに対して、他の列強が拠点の獲得に動いており、それに遅れずに、ドイツも拠点獲得を目指すように命じた。これを契機に外務省・海軍省・および海軍軍令部が中心となって、膠州湾占領に向けた具体的な討議が開始された。

ロシア・フランス・ドイツによる遼東半島返還の申し入れ(4月23日)以前の3月11日、外相マーシャルは、三国干渉の見返りとして拠点を獲得する可能性があるとして、ドイツが要求すべき拠点の候補地を挙げるように、海軍省に要請した。4月17日、海軍省長官ホルマンは、海軍拠点の候補地として、①上海付近の舟山群島と厦門、②膠州湾と香港付近の大鵬湾、③朝鮮半島南端の諸島と澎湖諸島を挙げた。

この海軍省の提案に対して、外務省は、外交の観点から獲得の可能性があるのは、膠州湾のみであると返答。しかし、海軍は経済上の観点から華南の港湾あるいは諸島を強く主張し、外務省と海軍の意見は平行線をたどった。

将来のドイツ拠点として膠州湾が選択されるのに決定的な役割を果たしたのは、1896年5月に東アジア巡洋艦隊司令官に任命された、後の海軍省長官ティルピッツ自身による中国沿岸部での現地調査の報告書である。9月にドイツ本国に送られたその報告書のなかで、ティルピッツは、膠州湾を上海から牛荘の間で唯一の天然の良港と評価し、同湾を獲得すべきドイツ拠点として推奨した。また、1896年11月、海軍軍令部司令・海軍大将クノルは当時ドイツに休暇中であった天津税務司デトリングから膠州湾の利点について説明を受け、膠州湾の獲得を政策方針とすることに最終的に同意した。30日、ヴィルヘルム2世は軍令部に占領計画の作成を指示し、翌12月15日に占領計画が提出されると、同計画は22日に承認された。実際の占領のおよそ1年前から、占領計画は策定されていた。

ティルピッツは、この報告書のなかで、中国植民地建設の段階を次のように提案した。

①山東内地への重要な地点まで東アジア巡洋艦隊によって中国軍隊を放逐し、ドイツ拠点の範囲を確定する。

②1500名の兵力と1海軍砲兵中隊を補充し、現存の中国軍隊の陣地を補完する。膠州湾は自由港として、あるいは低率の関税で開放する。ドックや港湾施設を建設する地点を詳細に調査する。また、濰県あるいは済南までの鉄道事業に着手する。膠州湾西南岸に堡塁あるいは駐留所を設置する。石炭貯蔵庫および小規模の海軍貯蔵所を設置する。

③商業上の観点から同地を拡充する。ドック施設と旧来の装備に依拠した暫時的な海上・陸上防備を整える。

④商業上の発展と同地の軍事上の重要性を向上させるように拡充する。

⑤必要な兵力の限度は6000名とする。

ティルピッツは、ドイツの中国植民地に求められる条件として、軍事的側面よりも経済発展の可能性を優先していた。彼の考えでは、膠州湾におけるドイツ拠点は、山東経済、華北経済の流通の中心地となることが望まれていた。そのために、山東鉄道の建設が予定され、その流通の主力として山東省の地下資源が見込まれていた。そして、その流通を支える制度として自由港制度の導入が提起されている。彼が想定した拠点形成の段階は、実際の占領時に、ほぼその通りに実行された。ただ、兵力は6000名と見積もられていたが、結局、ドイツ統治期間を通じて、2200名前後にとどまった。

1897年春、より専門的な見地から膠州湾を評価するために、キール軍港の建設を担当した海軍建築顧問官フランツィウスが膠州湾に派遣された。彼の報告は、基本的にティルピッツの見解を支持するものであり、両者の報告に差異はほとんどない。ただし、追加された点として、中国沿岸諸港に対して膠州湾におけるドイツ植民地の競争力を高めるため、最新のドック設備を建設するという技術的な提案と、そうした港湾施設の建設および鉄道の建設の際に山東省の住民を労働力として利用できるという指摘が見受けられる。山東経済の利点として、地下資源だけではなく、その人口の多さも開発のための労働力として注目されていた。


つづく


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