2024年8月5日月曜日

大杉栄とその時代年表(213) 1897(明治30)年3月1日~18日 ロシア「東清鉄道会社」設立 片山潜、キングスレー館を開く 南方熊楠、ロンドンで孫文と親しくなる 足尾鉱毒被害農民の第1回「押し出し」(大挙上京請願運動) 足尾銅山鉱毒停止期成同盟会創立  谷千城・津田仙・栗原彦三郎・榎本武揚(農商務大臣)の鉱毒現地視察     

 

1901年頃の片山潜

大杉栄とその時代年表(212) 1897(明治30)年2月1日~28日 八幡製鐵所設立 「(西洋)詩集を読むことが近来の第一の楽で少し間があれば詩集を見る、嬉しくてたまらん」(子規から漱石へ) 田中正造、質問書「公益に有害の鉱業を停止せざる儀につき質問」 幸徳秋水「新自由党報告書に擬す」 より続く

1897(明治30)年

3月

朝鮮、ドイツ人、江原道金城郡堂金鉱採掘権を獲得。

3月

ロシア、フランスの資金協力を得て清国と合弁で「東清鉄道会社」設立。本社ペテルブルク、支社北京。

3月

片山潜、神田三崎町にキングスレー館を開く。年末「労働世界」創刊。

神田三崎町一丁目に一軒家を借りて、イギリスで見たセツルメントを真似て事業を始める。宣教師長をしていたグリーン博士の援助(月25円、後に援助を切られる)を受けながら開設し、幼稚園、小僧夜学校、市民夜学校等を開催。キングスレー館は研究会や競技会場として労働運動・社会主義運動の中心となる。

3月

漱石「トリストラム、シャンデー」(「江湖文学」3月号)。


「二月九日に、彼(*漱石)は田岡嶺雲・笹川臨風ら自分より三つほど年下の青年たちがやっていた雑誌「江湖文学」のために書いた『トリストラム、シャンデー』を脱稿した。これは十八世紀の英国作家ローレンス・スターンの雑解をきざわめた主著の紹介である。笹川臨風は以前「哲学雑誌」に掲った金之助の『英国詩人の天地山川に対する観念』に感心したことがあり、田岡嶺雲も同意見だったので、わざわざ東京から寄稿を依頼したのである。」(江藤淳『漱石とその時代1』)

3月

漱石、久留米に旅行。

3月

オーストリア、新選挙法(24歳以上の全男性が投票できる第5部門を設定)に基づく選挙。ボヘミアでは青年チェコ党が圧勝。

3月

ロマン・ロラン(31)、「聖王ルイ」3~4月、「敗れし人々」4~11月(「パリ評論」)。

3月

南方熊楠、大英博物館東洋図書部長ダグラスの部屋で孫文と知り合う。4ヶ月間、毎日のように行き来する。7月、孫文はロンドン発。また、正金銀行ロンドン支店長中井芳楠の家で土宜法竜(後、高野山管長)と出会う。土宜とは生涯書簡の交流が続く。

3月1日

シネマトグラフ、京都(京都電燈株式会社の中庭(現在の立誠小学校跡地))で上映。

3月2日

第1回「押し出し」(大挙上京請願運動)

足尾鉱毒被害農民800余名(出発時には2千余名。途中警官に阻止される)、日比谷に集結、榎本武揚農商務相に陳情、在京新聞社に鉱毒被害の実情を訴える。警官の説諭で一時引き揚げる。

翌4日、再び400余名が請願行動を起こす。

第2回は同年3月24日、第3回は31年9月26日、第4回が33年2月13日で、この時、利根川沿いの川俣で警官隊と大規模に衝突した川俣事件が発生。

政府は、30年3月24日、内閣直属として足尾銅山鉱毒事件調査委員会(第一次鉱毒調査会)を設置。第一次鉱毒調査会は、内閣に7回の決議を上申し、明治30年12月27日に解散となったが、この上申に基づき同年5月27日、古河市兵衛に37項目にわたる鉱毒予防命令が発せられた。古河は同年11月22日、この命令に基づく予防工事について東京鉱山監督署の竣功認可を受けた。また鉱毒調査会では、足尾鉱毒被害地の地租の免税が決議され、政府は現地調査に入り実行された。

明治立憲制=少数支配代議制の枠組を超えた人民大衆の直接行動の開始。足尾鉱毒停止運動の飛躍的発展の転機となった事件。

東京事務所に詰めていた栃木県足利郡(旧梁田郡)久野村在住の室田忠七の鉱毒事件日誌

3月2日 「足尾銅山鉱業停止請願ヲ貫徹スル為メ上京ス」

3月3日 「貴衆両院議長ノ官宅ヲ訪問」、「農商務省ニ出頭シ前ノ事情ヲ大臣ニ向テ陳情セントス」

貴衆両院議長および農商務大臣に陳情しようとしたが、結局は面会できなかった。

3月2日

加藤シズエ、誕生。

3月6日

高野房太郎、社会政策学会の席上で,佐久間貞一と知り合う。

3月6日

「電気作用活動大写真」(原名ブアイタスコ-プ)、錦輝館で公開。


「活動写真は、フランス人リュミエール兄弟とエジソンの発明により、明治二十九年六月二十日、荒木商会によって歌舞伎座で試写が行われる。日本最初の常設館となった錦輝館での入場料は、特別一円・一等五十銭・二等三十銭、三等二十銭である。なお、明治四十五年三月三日、有楽座で行われた「文芸活動写真会」は、安成貞雄が主催し、生田長江・馬場孤蝶が解説にあたる。これは、レールモントフ『悪魔』やシェークスピア『リア王』などの名画を上映した。大正六年ごろから「映画」という名称が、一般に用いられはじめる。」(荒正人、前掲書)

3月7日

2月27日設立された足尾鉱毒事件の東京での請願事務所が芝口三丁目の旅館・信濃屋に移り、名称は「足尾鉱業停止請願同盟事務所」となる。

3月7日

子規、この日の『明治二十九年の俳句界』(『日本』連載)で漱石の句を激賞。


「・・・・・まず第一に「其意匠極めて斬新なる者、奇想天外より来りし者多し」と。その例として「紡績の笛が鳴るなり冬の雨」、「挨拶や髷(まげ)の中より出る霰(あられ)」など十二句があげられている。第二に「滑稽思想を有す」として「長けれど何の絲瓜(へちま)とさがりけり」など四句、第三に「漢語を用ゐ、或は俗語を用ゐ、或は奇なる言ひまはしを為す」として「明月や丸きは僧の影法師」など四句、そして第四に「雄健なるものは何処迄も雄健に真面目なるものは何処迄も真面目なり」として、「短夜の芭蕉は伸びてしまひけり」、「凩(こがらし)や海に夕日を吹き落す」、「酒なくて詩なくて月の静かさよ」など十八句を例示している」(小森陽一『子規と漱石 友情が育んだ写実の近代』(集英社新書))

3月8日

シネマトグラフ、東京・神田川上座で横田永之助により上映。同窓の横田万寿之助を通じ永之助を知った稲畑勝太郎、以後興行を永之助に任せて退く。

3月9日

シネマトグラフ、横浜で吉沢商店(店主・河浦謙一)により公開。このシネマトグラフの映写機は吉沢商店がこの1月独自に輸入したもの。

3月13日

足尾銅山鉱毒停止期成同盟会、創立。正造を応援するため、東洋社会党樽井藤吉・自由党左派稲垣示らの協和親和会が母体。

19日、谷千城(貴族院議員、農本主義的小農保護思想)・津田仙・栗原彦三郎、鉱毒現地視察。

23日、農商務大臣榎本武揚、鉱毒現地視察。

同23日、鉱毒被害民、第2回大挙押出し、~3月30日。

24日、田中正造、前回以上の賛同者得て再度質問書提出。

同24日、松方内閣、足尾銅山鉱毒調査委員会設置(委員長進歩党員法制局長神鞭知常)。

3月13日

新聞紙条例改正案(新聞紙条例の発行禁停止条項削除)、貴族院通過。内務大臣による発行禁停止条項は削除され、裁判所だけが判決で発行禁止できることになる。

3月15日

フランス、海南島不割譲を約束

3月18日

島田三郎(44)、横浜会館(後の開港記念会館)での免囚保護演説会で演説。

3月18日

東京事務所に詰めていた栃木県足利郡(旧梁田郡)久野村在住の室田忠七の鉱毒事件日誌


3月18日 「足尾銅山鉱業停止事務所栃木県・群馬県・埼玉県・茨城県ノ四県ノ事務所ヲ芝口三丁目信農屋ニ置ク」

3月19日 「東京府下各新聞社ヲ訪問ス」

3月20日 計10名の衆議院議員を訪問。

3月21日 計5名の衆議院議員を訪問。

3月22日 「農商務省ニ至リ大臣ニ面会ヲ求メタレトモ、大臣議会ニ出タリトテ面会カ出来ス」


つづく

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