1898(明治31)年
1月
アメリカ技師撮影の芸者の手踊り実写映画、公開。当たりをとる。キネトスコープのフィルムをヴァイタスコープに掛けたもの。
1月
子規、月給40円になる。
1月
国木田独歩「今の武蔵野」(のち「武蔵野」と改題)(「国民之友」)1、2月
1月
ロシア、クロパトキン大将、陸相任命。トルコ正面重視派であるが、占領した膠州湾の租借範囲拡張、鉄道施設権など要求。これが決定され清国政府に提出。
1月
アンリ・マチス(29)、アメリー・パレイルと結婚。ハネムーンで、ロンドン、コルシカ、トゥールーズ、フヌイユを回る。その際ピサロの助言によりロンドンではターナーの作品を研究。
1月1日
福澤諭吉「福澤全集」発刊(~5月13日、5巻)
1月1日
英照皇太后崩御のため服喪中で熊本の街は平常より淋しい。俣野義郎、学友を何人か連れて来る。鏡は一緒に歌留多をする。
1月1日
徳冨蘆花(29)、「湘南歳除」(「国民新聞」)掲載。逗子滞在中。以来自然をスケッチした文を多く寄稿し、自然派詩人として目されるようになる。
1月1日
ルイジアナ州、「祖父条項」新憲法採択。黒人公民権剥奪目的。'67年1月1日現在、父・祖父が選挙権を持っていた人だけに終身選挙権登録許可。
1月2日
田中正造「足尾銅山鉱毒事変請願書並始末書草稿」編集出版。
2日、大磯の大隈重信を訪問、これを贈呈。鉱毒の話題をするや、大勢から追い出される。進歩党は松方内閣と提携。大隈は外相、志賀重昂は農商務省山林局長、肥塚竜は鉱山局長に就任。
1月4日
漱石、昨年末より山川信次郎と行っていた小天温泉から帰宅。
1月6日
漱石、正岡子規宛に句稿その二十八を送る。
1月6日
この日付け漱石の虚子宛の手紙
「小生旧冬より肥後小天と申す温泉に入浴、同所にて越年致候」として四つの句を書いている。
かんてらや師走の宿に寝つかれず
酒を呼んで酔わず明けけり今朝の春
甘からぬ屠蘇や旅なる酔心地
うき除夜を壁に向へば影法師
これらの句を読むと、妻を駈いて出かけたことへの後ろめたい思いが、多少にんじでいるようでもある。
上村希美雄「『草枕』の歴史的背景」は、卓が晩年共に暮らした弟、九二四郎の息子の妻、花枝さんの言葉を伝えている。
「一生のあいだ、ロクな男には出会わなかったが、夏目さんだけは大好きだったよ」と。またこの花枝さんは、漱石と卓の二人だけの写真も見ていると上村に証言したという。傘をさした浴衣姿の夏の写真だとか。
漱石と山川が小天を訪れたあと、彼らと卓はけっこう親しく交流したらしい。
「月報」の森田草平のインタビューの中で卓は、ときどき熊本の山川の下宿を訪ねたことや、狩野の下宿の世話をしたことを次のように話している。
「わたくしは故郷におります時分に、山川さんとは極くご懇意に願いまして、ちょくちょく熊本のお宿元へも伺いました」。その時には、いつも襖を開け放ち、あくまで友人としての訪問だったと断っている。また、「その外狩野さんが初めて赴任していらしった時も、わざわざ三里の山越えをして、熊本まで出掛けて下宿のお世話までいたしたような次第ですが、夏目先生のお宅へは、奥様もありましたし、何となく気兼ねで一度もお伺いしたことがありませんでした」。
山川とは友人としてのつきあいだったと言い、漱石の家庭に対する気兼ねというこの言葉のニュアンスが美妙である。
1月7日
狩野亨吉、熊本に到着。
夜、漱石、研屋旅館支店(現・熊本市手取本町)に狩野亨吉を訪ねる。
1月22日、狩野亨吉の正式赴任
1月26日、教頭を命ぜられる
1月8日
周恩来、誕生。
1月8日
諷刺雑誌「團々珍聞(まるまるちんぶん)」145号に大石誠之助(「新宮 無想庵」)の狂歌(膠州事件諷刺「山東に地を流したる果ては地を 割かねば承知宣教の職」)。
次号(146号)には幸徳秋水の「東洋乎東洋乎」掲載。
1月12日
第3次伊藤内閣成立。
伊藤は自由(板垣)・進歩(大隈)党との連携求めるが、双方とも内相ポストを要求し交渉決裂、政党抜きの長州系藩閥内閣として発足。農商相伊東、逓相末松、文相西園寺、法相曾禰荒助。外相西徳二郎(第2次松方内閣下で前年11月に就任、薩摩、ペテルブルク大卒、外交官、前駐露公使)。書記官長鮫島武之助(第2世代幕僚)。
伊東が自由党との提携交渉を続行し、1月下旬頃、総選挙(3月15日)後には板垣を内相に起用する線で提携合意。2月6日伊藤は自由党幹部・議員を官邸に招待、3月1日自由党は紅葉館の答礼。選挙後、板垣入閣実現せず、伊藤・伊東の確執露呈。
伊藤は、前内閣存続中から伊東巳代治を通して自由・進歩両党を含めた「挙国一致」内閣の可能性を模索。第10議会後、三菱の岩崎弥之助、進歩党の大石正巳らにより伊藤・大隈・松方の提携工作が試みられ、伊藤は大隈が伊藤との提携に積極的であると確認し、進歩党と薩派との提携破綻後は、大隈との接触を深める。また、第2次伊藤内閣書記官長として自由党との提携工作を担当した伊東は、引続き板垣や自由党土佐派との接触を保つ。自由党(とくに土佐派)は伊藤内閣再現を期待し、それとの提携を用意する。従って、松方内閣末期の薩派と自由党九州派との提携交渉に対し、土佐派は否定的であった。伊藤の「挙国一致」内閣構想は、伊東巳代治が「先以て第一流政治家を集めて最強の内閣を作り、財政の治療は増税を決行して優に収支を償ふに余りあるものとし、・・・外に対しては挙国一致のカを以て之に当らさるぺからす」と書くように、かっての第2次伊藤内閣のような「元勲内閣」としての性格をもち、しかも懸案の地租増徴を可能にする基盤を衆院に持つもの。
自由・進歩両党が第3次伊藤内閣成立を期待するのに対し、政党勢力の政権参加に対して否定的な山県系勢力は、山県内閣不成立に失望し、伊藤内閣への不信を隠さず。熊本県知事大浦兼武は、国民協会佐々友房に宛てて「折角善後策ニハ山侯ヲ起シ度ク候処、只今東京政友よりの飛電ニ大勢已ニ定マル伊藤ト、山県ハ望ナシトノ事甚遺憾ニ存候。・・・最早御同様ノ気ニ人ル内閣ハ結局出来サルモノトアキラメルヨリ道ナシ。小生ハ本年ノ変ヨリ愈々将来迚モ駄目卜政友ニモ咄シ致居候」と慨嘆し、「扨愈々伊藤内閣ヲ頂戴セハ又例ノ混線ニ可相成卜存ジ候」と書く。品川弥二郎も「芽城将軍(山県)を起すの機ニナレハ、国家の将来少しく望ミ有之候事と存候得共、此機ハとても来らぬ事二三年後ノ楽しみに遺憾ながら存ミ候」と書く。
自由・進歩両党との提携による「挙国一致」内閣を目指す伊藤の構想は、両党との交渉失敗により挫折。当初、伊藤は大隈を外相に、板垣を内相以外に配することで両党の支持を得ようとするが、進歩党は大隈の内相就任と他に3閣僚を要求(進歩党は松方内閣との提携において大隈大臣と県知事・各省局長、更に新設の勅任参事官に党員を登用させており、これ以下の城建で提携する事は党内事情から困難)。自由党についも事情は同じ(自由党は板垣の内相就任を求めたが、自由党九州派はこれに先立つ薩派との提携交渉において、2閣僚の条件を引き出しており、伊藤と交渉する土佐派にとって、板垣の内相就任は党内事情からも絶対に譲れない一線である)。しかし、伊藤は、総選挙をひかえ、選挙事務の最高責任者である内相をいずれか一党に渡すことは、「挙国一致」内閣の実を失わせる所以と考え、自由党・進歩党どちらの要求も容れず。ここでまず進歩党が伊藤との提携を断念。自由党も総選挙後に期待していた板垣の内相就任が拒否され、一転して野党の旗職を鮮明にする。伊東巳代治は、自由党との提携条件に厳しい態度をとった伊藤を、「東洋の危機、挙国一致のみを呼号して此難情を過ぎんこと思も寄らす」と批判(一旦政権参加した政党にとって、提携条件の後退はありえない)。
この事態に山県系は元気づく。品川は佐々に対し、「一方面ニハ巳代治・謙澄と申杉丸太の二柱あり。此ノ二柱の裏内ニハ自由卜申数種ノ鉄線アレバ此ニハ尤御注意」と警告しながら、「井上・西郷ノ両柱ニテ新内閣ハ出来夕モ(ノ)ナレバ、此点ヨリハ超然内閣ノ名丈ケハアルベシ」と安堵。国民協会の態度は、「洞峯上の遠眼鏡ハ曇ラヌ様ニ時々磨く事申すも諌なり」として決定を保留。大浦は佐々に宛てて「自由トノ縁組も不調之由・・・将来ノ政海如何ノ御観測二候哉。局面妄スへキ事卜存シ、其時機は当秋比ニ可相成カ如何。或ハ平素ノ希望点二近寄り来ルカも難計」とし、一度は絶望視した超然内閣再生に希望をつなぐ。
1月12日
足尾銅山鉱業停止東京事務所に詰めていた栃木県足利郡(旧梁田郡)久野村在住の室田忠七の鉱毒事件日誌より
「特別免租処分請願書奉呈運動トシテ梁田村長・御厨村長・筑波村長ノ調印ヲ得」る。
つづく
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