2024年8月16日金曜日

大杉栄とその時代年表(224) 1897(明治30)年12月1日~20日 中江兆民、国民党結成 労働組合期成会鉄工組合発会式 漱石、狩野亨吉に熊本五高への来任を懇請 ロシア軍艦、旅順港に強行入港   

 

1897(明治30)年11月14日の鉄工組合創立相談会で選出された創立委員および労働組合期成会幹事の高野房太郎と片山潜(最前列右端であぐらをかいているのが高野、その左が片山

大杉栄とその時代年表(223) 1897(明治30)年10月25日~11月28日 漱石にかつての義母塩原やすからの手紙が届く ゲッペルス・宇野千代生まれる 中国山東省でドイツ人神父殺害(→ドイツ艦船、膠州湾占領・青島砲台奪取) 第二次松方内閣、純然たる薩閥内閣となる 閔妃国葬 より続く

1897(明治30)年

12月

中江兆民、国民党結成

「大豪傑、国会議員候補者、大学者、策士、大資産家、官吏の古手前」や「人間を馬の足にし、政党で喰ひ政党で衣、政党で金儲けをせんとする人」を除外し、「太郎平、民右衛門、華族、新民、百姓、士族、下戸、上戸、大根売り、会社員、土方、旦那、職工」、即ち「日本国に深切なる日本国民」の結集を図ろうとする。模索状態であるが、既成政党とは異なる基盤の上に政治勢力を樹立しょうとする。

12月

与謝野晶子(19)、早間良弼編「ちぬの浦百首」に短歌「落葉似雨」(表題)1首発表。

12月1日

労働組合期成会鉄工組合発会式。小石川砲兵工廠労働者中心。午後6時、神田青年会館。実弟高野岩三郎も演説。

5日、「労働世界」創刊。半月刊。編集長片山潜、1,180人。

12月3日

赤木通弘、「病的神経質に陥り」五高に辞表提出。

英語教師の陣容を整えようと、4月に山川信次郎を招聘し、9月からは東京帝大を卒業したばかりの赤木通弘を迎えていた。しかし、赤木は赴任当時から授業に自信が持てず、学生の評判もあまりよくなかった。漱石と山川とでなんとかなだめ励ましてきたが、もはや引き留めることができなくなった。

12月4日

・ギリシャ、オスマン帝国、イスタンブール条約締結。クレタ島、オスマン帝国より分離

12月6日

堀内敬三、誕生。音楽評論家。

12月7日

漱石、狩野亨吉に熊本への来任を懇請。狩野亨吉の仲介で9月以来赴任している赤木通弘が教職に耐えず辞任を申し出たこと、事情やむをえないので解任の手続きをしたこと、狩野亨吉に代って教授を願えぬかなどと書く。

同日、千葉県千葉尋常中学校にいた菊池謙二郎に宛てて、英語教師1名雇入の件を相談している。


「授業と教務

五高での英語の授業は松山中学と打って変わり、「逐字的解釈」はやめ、「達意を主とする遺方(やりかた)」に変わった。『オピアムイーター』(『阿片常用者の告白』)や『サイラス・マーナー』などをすらすら音読して、「どうだ、分ったか」といった風であった(寺田談)。

教務の方は福岡県や佐賀県の尋常中学の英語授業を視察し、報告書を提出したりした。人事では、四高(金沢)を退職して東京に帰った狩野亨吉を、教頭として熊本に呼ぶことに成功した。山川もそうだが、東大出の親しい友人が三人揃ったわけである。菅は喀血して退職していた。」(十川信介『夏目漱石』(岩波新書))

12月9日

漱石、天草・島原方面へ修学旅行。

12月14日

栃木・群馬・茨城・埼玉・千葉5県関係町村83名連署「憲法に依り被害民保護請願書」。

12月15日

ロシア軍艦、金州半島先端の旅順港に強行入港、海軍基地化を既成事実とする。ドイツの膠州湾占領への対抗措置。他方、李鴻章らへの賄賂作戦。

12月15日

自由党大会、松方内閣不信任案を提出を決議。

18日、進歩党大会、松方内閣との絶縁・内閣の更迭要求を決議。

20日、国民協会大会、松方内閣反対を決議。

12月15日

フィリピン、ビヤックナバトー和平条約調印。170万ペソの和平金と引換にアギナルドらは香港に亡命。しかし、戦闘は各地で継続。

12月16日

仏、作家アルフォンス・ドーデ(57)、没。

12月17日

漱石、菊池謙二郎(千葉尋常中学校)宛手紙。奥太一郎(岡山県津山尋常中学校)を、第五高等学校で採用したいのでと、援助を求める。

12月18日

台湾総督府高等法院長高野孟矩、非職で止まらず、懲戒免官・位記返上命ぜられる。

12月20日

「大阪朝日」主筆池辺三山、「東京朝日」主筆も兼任。のち、鳥居素川が「大阪」を引継ぐ。30日、池辺三山「明治三十年の外事及外交」。~翌明治31年1月4日迄。

西村天囚が長期中国出張をする為、三山が「東京朝日」主筆を兼ね、「大阪朝日」論説は、後輩の鳥居素川に委ねて上京、やがて仕事を「東京朝日」主筆に絞る。

31年1月17回、2月14回、3月17回の「東朝」社説を書く。

三山社説の主題を構成する第一の要素はナショナリズムの高揚。「国粋派」と云われる言論を陸羯南の新聞「日本」と三宅雪嶺の雑誌「日本人」が組織し、三山はこの「国粋派」論客の流れの中にある。

第二の要素は、帝国主義列強の対アジア攻勢への対処。日本が清国に遼東半島を還付した3年後(1898年)には、ドイツの膠州湾租借、ロシアの旅順・大連租借、イギリスの九竜半島・威海衛租借、フランスの広州湾租借と相次ぎ、中国の要衝は次々に侵蝕されゆく。

12月20日

「朝菅〔虎雄〕を訪ひ終に夏目に向ひ承諾の電報を發し次で評を送る。」(「狩野亨吉日記」)


つづく

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