2024年8月20日火曜日

大杉栄とその時代年表(228) 1898(明治31)年2月12日 子規「歌よみに与ふる書」(その2)   小森陽一『子規と漱石 友情が育んだ写実の近代』(集英社新書)より  

 

源実朝像(『國文学名家肖像集』収録)

大杉栄とその時代年表(227) 1898(明治31)年1月13日~2月12日 落合直文『翁の小言』 加藤唐九郎・福沢一郎生まれる 大日本鉄道会社の機関方ストライキ、要求の大半が認められ決着 伊藤深水・尾崎士郎生まれる 幸徳秋水「紀元節を哀しむ」 子規「歌よみに与ふる書」(その1) より続く

1898(明治31)年

2月12日 

子規「歌よみに与ふる書」(その2)

■小森陽一『子規と漱石 友情が育んだ写実の近代』(集英社新書)より


「こうした『日本』の読者からの、和歌の不振を嘆く投書に応えるように、『歌よみに与ふる書』(二月一二日)は、「仰の如く近来和歌は一向に振ひ不申候」と書き始められていく。「書」として位置づけている以上、読者との言葉の応答関係を強く意識した書簡体評論であり、この形式それ自体が討議的で対話的な「デモクラティック」な場を構成している。

子規の問題提起は強烈であった。「和歌」の世界は「万葉以来実朝以来一向に振ひ不申候」と言い切ったのである。歌集としては『万葉集』だけ、歌人としては源実朝ただ一人しか評価しない、と子規は宣言する。「実朝の歌は」、「力量あり見識あり威勢あり時流に染まず世間に媚びざる処(ところ)」を評価すると述べ、「人間として立派な見識のある人間ならでは実朝の歌の如き力ある歌は詠みいでられまじく候」と、自らの評価基準を子規は明確に定義している。そして、自らを、「力を極めて実朝をほめ」、「万葉崇拝」の立場に立った賀茂真淵の系譜に位置づけたのである。

そして『再び歌よみに与ふる書』(二月一四日)では、より大胆に、冒頭で「貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候」と言い放っている。この宣言は、同時代の歌壇に対する全否定とも言える。

一八八八(明治二一)年に御歌所の初代所長となった高崎正風(一八三六~一九一二)は八田知紀(一七九九~一八七三)に歌を学んでいる。八田は香川景樹(一七六八~一八四三)の二高弟の一人と称された、『古今和歌集』の歌風を尊重した桂園派の正統を継ぐ存在であった。したがって「貫之や古今集を崇拝するは誠に気の知れぬこと」と宣言することは、権力の中心とも結びついていた明治の歌壇全体を敵にまわすことでもあった。なぜそこまでしなければならなかったのかと言えば「実は斯く申す生も数年前迄は古今集崇拝の一人にて候ひし」という状況だったからだ。

つまり誰もが「古今集」を和歌の規範だと崇拝し、疑いを抱かない体制が明治の歌壇を支配していたから、「古今集」を「真似る」ことだけに終始してしまったのである。根拠のない規範意識から自らを解放しなければならない。そのためには議論を尽くすことが必要だ。『三たび歌よみに与ふる書』(二月一八日)では、「異論の人あらば何人にても来訪あるやう」「三日三夜なりともつゞけさまに議論可致候」と子規は読者に呼びかけていく。

議論をするためには、理念的な「空論ばかり」ではなく「実例」をあげて「評」をする必要があるとして、子規は『四たび』(二月二一日)と『五たび』(二月二三日)で、具体的な歌をあげながら、自らの和歌に対する評価の基準を明示していく。

まず『四たび』で批判されるのは、「感情を述ぶる」「歌」において、「理窟を述ぶる」例である。八田知紀の「芳野山霞の奥は知らねども/見ゆる限りは桜なりけり」における「霞の奥は知らねども」は、「理窟に陥」っている、と子規は言う。なぜなら「見ゆる限り」という言葉によって、見えないところについてはわからないという限定がされているのだから、わざわざ「知らねども」などと断る必要はないからだ。

『五たび』においては、凡河内躬恒の「心あてに折らはや折らむ初霜の/置きまとはせる白菊の花」を「一文半文のねうちも無」い「駄歌」と批判している。その理由は「嘘の趣向」だからである。初霜が降りて一面白くなり、どれが本当の花か見分けがつかなくなっているけれど、あて推量で白菊の花を折ってみようかという歌の意味だが、「初霜が置いた位で白菊が見えなくなる気遣」は「無」い。しかも「嘘」の中でも「瑣細(ささい)な事を矢鱈(やたら)に仰山に述べた」「無趣味」の「つまらぬ嘘」だから駄目なのだと子規の批判は手厳しい。

そして『六たび』(二月二四日)で子規は、実際に『日本』に投書された「千葉稲城」による「竹の里人に一筆参らせ候」の要所要所を批判しながら、「文学的に其歌を評する」自らの立場を鮮明にする。『七たび』(二月二八日)では、「漢語にても洋語にても文学的に用ゐられなば皆歌の詞」であり、和歌における「用語の少き」ことが原因となって和歌が腐敗しないようにするべきだと主張する。

『八たび』(三月一日)で、初めて「善き歌の例」をあげて論じると宣言する。全て、源実朝の『金塊和歌集』の歌であり、最初に分析されるのが「武士(もののふ)の矢並つくろふ小手の上に霰たはしる那須の篠原」である。

子規は、この歌の「句法」の独自性について、「なり、けり、らん、かな、けれ」などの「助辞」が少なく、「名詞極めて多く」、「二個の動詞」も「動詞の最短き形」である「現在」形で、「材料」が「充実」していることを高く評価している。三つの「の」と一つの「に」以外は、全て意味のある言葉でこの歌は満たされており、「句法」としてはきわめて「破天荒」であるとされる。実はこの実朝の歌は、『三たび』においても引用されていたのである。賀茂真淵の歌と対比しながら、「調子の強き事は並ぶ者無く此歌を誦すれば霰の音を聞くが如き心地致候」と子規はとらえていた。

「誦す」るとは声を出して詠むことで、確かに後半の「アラレ」「タハシル」「シノハラ」という音からは、多くの「武士」たちの肩先から腕をおおっている、鎧の付属具である鎖と鉄金具で仕立てられた籠手(こて)に、霰がバラバラとあたる様子が、聴覚から視覚へ転ずるように想像出来る。「モノノフノ」というやわらかい音から始まるこの歌の、いわば擬音効果的転調と、戦場に集合した武士団の開戦直前の緊張、つまり形式と内容が見事に相乗効果をあげていることを子規は指摘しているのである。

「那須の篠原」に集合した「武士」の一団が、開戦を前に矢を入れる箙(えびら)の矢並びを、一斉に整えている光景が水平軸の広がりの中でとらえられている。一人の武士が箙の中の何本もの矢を整える像から、それが多くの武士たちによって一斉に行われるという一から多への相乗的な視覚的像の転換、矢並びを整える音と、霰が「小手」(籠手)にあたる音が交錯する、やはり相乗的な聴覚的像の効果、そして、それまでの水平軸に対し、霰によって天から地への垂直軸が一気に何本もひかれていく。子規の言うとおり、「比の如き趣向」は、「和歌には極めて珍しき事」なのだ。子規は「一方には此万葉を擬し一方には此の如く破天荒の歌を為す」実朝の、「測るべからざる」「力量」を見出しているのである。

そして『九たび』(三月三日)では、『金塊和歌集』の歌を四首とりあげて、実朝論をまとめることになるのだが、引用された最後の歌に注目したい。


大海のいそもとゝろによする波われてくたけてさけて散るかも


この歌について子規は 「大海の歌実朝のはじめたる句法にや候はん」という問いを、読者に投げかけている。子規の討議的で民主主義的な批評の言説に、八〇年近い年月を経て応答したもう一人の批評家が存在したことを私たちは忘れてはならないだろう。この歌を引用しながら、その批評家は、子規の問いかけに次のように答えていた。


京都歌壇の月なみの題材は、大海の怒濤を含まなかった。また結句に感歎詞「かも」を用いることも少なかった。

(加藤周一『日本文学史序説』上、ちくま学芸文庫、一九九九。単行本は一九七五年刊行)


子規が問うた実朝の独自性、「実朝のはじめたる句法」の内実を、「題材」においても「結句」の「かも」の使用においでも「月なみ」ではなかったことを明確にし、この歌に子規の言う「実朝のはじめたる句法」が息づいている理由を加藤氏は明晰に理論化する


実朝には貴族文化にあこがれながら、その枠を超える面があり、その理由は、おそらく鎌倉の「歌人」が、鎌倉の「将軍」と同じように、徹底して孤独であり、由比ケ浜の波をひとりで長く見つめているときがあったからであろう。         (同前)

源実朝という「鎌倉の将軍自身」が、「武士権力から疎外されていた」と加藤氏は言う。実朝は自分が暗殺される可能性が高いことを自覚しながら歌を詠んでいた。実朝が宋人に「唐船」をつくらせたのは「本来亡命を目的としたものであったかもしれない」と、加藤氏は想像している。「策謀とかけ引き、- その主体としての個人が独立しはじめる時代」の中で実朝という「個人」が析出されたと加藤氏は考えている。

子規の実朝への共感も、死に向かい合う覚悟において成り立っていたのである。そのように考えると、初回の『歌よみに与ふる書』の書き出しの第三文と第四文は、実に切実な意味を帯びていたことに、改めて気づかされる。


実朝といふ人は三十にも足らでいざ是からといふ処にてあへなき最期を遂げられ誠に残念致し候。あの人をして今十年も活かして置いたならどんなに名歌を沢山残したかも知れ候。


一八九八(明治三一)年、ようやく子規は「三十」に「足」りた。前年の五月末に重態となり、「小生覚えてより是程の苦みなし」というほどの「苦痛」を体験し、「いつその事早く死んでアゝ惜しい事をしたといはれたが花かとも存候」(一八九七年六月一六日付書簡)と漱石に弱音をはいでもいた。そして「万一生きのびるなら生きて居る間の頭の働如何は今より気遣敷(きづかわしく)候」(同前)と心配し、「歌」をめぐる論争の中に、自ら飛び込んだのである。

子規は自分が「今十年も活」きるとは思っていない。したがって実朝への「どんなにか名歌を沢山残したかも知れ不申候」という言葉は、実は自分自身への、必死の叱咤激励だったとも考えられる。あと何年生きられるかどうかわからない中で、どれだけ「沢山」の「名歌」を「残」せるのかという実朝の境涯は、子規自身に向けられていた問いだったのである。

「十たび」(一八九八年三月四日)の中で、子規は、自らを励ますように、「歌よまんとする少年あらば老人抔にかまはず勝手に歌を詠むが善かるべくと御伝言可被下候」と宣言している。「古人のいふた通り」や「しきたりに倣はんとする」のではなく、「只自己が美と感じたる趣味を成るべく普く分るやうに現すが本来の主意に御座候」という、あるべき短歌の姿を提出した単純明快な子規の言葉は、自らの歌の創作への方向づけでもあった。」(小森陽一『子規と漱石 友情が育んだ写実の近代』(集英社新書))


つづく

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