2024年8月10日土曜日

大杉栄とその時代年表(218) 1897(明治30)年6月1日~30日 虚子、大畠糸と結婚 子規の病状平常化 「小生、食事はすすみ候へども牛乳四合にはほとほと閉口致候。神田川の鰻がくひたいなどと贅沢申をり候」 高山樗牛、日本主義を発表 京都帝国大学設立 漱石の父直克没    

 

高山樗牛

大杉栄とその時代年表(217) 1897(明治30)年5月1日~29日 列強の紡績工場が相次いで中国に進出 子規の病状悪化(重態) 細井和喜蔵・藤山愛一郎生まれる 古河市兵衛に鉱毒予防工事を命じる(全く効果上がらず) 漱石の畏友米山保三郎没

1897(明治30)年

6月

小西写真器店、ゴーモン・カメラを輸入。

6月

虚子、大畠糸と結婚。糸は虚子と碧梧桐が住む神田淡路町の高田屋(旧前橋藩士がはじめた下宿屋)の娘で、駿河台上のハリストス正教会の女学校を出た。

虚子は、結婚の事実を半年近く子規には知らせなかった。

6月3日

子規の看病に赤十字社の看護婦加藤はま子を頼む。

6月5日

横浜ドック船大工スト。

6月5日

鉄道学校(のちの岩倉鉄道学校)が開校。

6月7日

英、ジョゼフ・チェンバレン植民相、第2回植民地会議開催

6月10日

雑誌「実業之日本」、創刊。

6月14日

ロシア、工場法制定、11時間半労働制

6月16日

この日付け子規の漱石宛て手紙。病状平常化、交替の看護は見合わせに。


拝復

先月末四五日間打続きて九度已上(いじやう)の熱に苦められ、朝も夜も一向に下るといふことなければ、寐るといふこともなく、先づ小生覚えてより是程の苦みなし。今度は大方あの世へ行くことと心得に待居(まつおり)候処、本日初より熱は低くなり、今では飯がうまくてたまらぬ様に相成候。また暫時は裟婆の厄介物とながらへ申候。併し形勢は次第によろしからず、今は衰弱の極に有之候。談話などは出来ず僅に片言隻語を放ちてさへ苦しきこと多し。叔父在京のため色々世話致しくれ、今では看護婦さへ傍(かたはら)に置きて残りなき養生、生に取てはチト栄耀(ええう)過る事と存候へども、生きて居る間は一日でも楽はしたく贅沢を尽し申候。固(もと)よりこれもいにがけの駄賃にて、到底回復の見込もなければ、叔父に対しても何やら気の毒にも存候。

(略)

他人よりいへば、我輩のやうな道楽者でも一日も生きのびるやうにとの介抱、それを思へばいつも涙の種なれど、さりとて思ふ事も出来ず楽(たのしみ)もなくして生きて居るか手柄でもあるまじく候。一日も早く行くべき処へ行くが自分のため、文人のためと存候。死別の悲みは飼犬に死なれてもあることなれども、それもいつか一度はあることなれば、一年早からうが五年遅からうが同じことなり。いつその事早く死んで、アゝ惜しい事をしたといはれたが花かとも存候。此頃は毎日晩刻七度五分位、先づ平穏の姿にてどうやら持合居(もちあひ)をり候。あるひは近日手術をやるかもわからず、手術の結果は今より分らねど、苦痛減じて疲労来るにはあらずやと存候。尤も御承知の病気なれば案外死もせで、まだ多少は生きのびるかも知れず候。・・・・・

(略)

碧梧桐、漫遊中紀行を読てうらやましく候。

虚子『日本人』に従事致をり候。

小生、食事はすすみ候へども牛乳四合にはほとほと閉口致候。神田川の鰻がくひたいなどと贅沢申をり候。

昨日足痛んで堪へられず(左足時々疼痛を起す)、ひとり蚊帳の中に呻吟する時杜鵑(とけん=ほととぎす)一声屋根の上かと思ふ程低く鳴(ない)て過ぐ。そぞろに詩情を鼓(こ)せられて、


時鳥しばらくあつて雨到る


只実景のみ御一笑。

病来殆ど手紙を認めたることなし。今朝無聊軽快に任せくり事申上候。けだし病牀にありては、親など近くして心弱きことも申されねば、却て千里外の貴兄に向つて思ふ事もらし候。乱筆の程衰弱の度(ど)を御賢察被下度候。已上

明治三十年六月十六日                               子規

漱石 盟台

余 命 い く ぱ く か あ る 夜 短 し

障 子 あ け て 病 間 あ り 薔 薇 を 見 る

病中数句あり、平凡不足看一、二附託、叱正。

貴兄この夏帰省するや否や。


6月20日

高山樗牛、実行道徳の原理、日本主義を雑誌「太陽」に発表。

6月22日

京都帝国大学設立。従来の帝国大学は東京帝国大学と改称(6月18日)。

6月25日

高野房太郎、神田青年会館で職工義友会主催「我国最初の労働問題演説会」。演説会終了後、「高野氏は義友会を代表して期成会設立の必要を説き、来会者の賛成を求めたりしか之に応ずる者実に四十七名」。秀英社社長佐久間貞一、キングスレー館片山潜、進歩党島田三郎、新仏教徒松村介石、経済学者鈴木純一郎ら。

6月29日

漱石の父直克没(享年81)。兄直矩から電報が届く。


「直矩は、父の死後、九月二十七日それまで住んでいた家屋や土地を天谷永孝(麹町区永田町一丁日九番地)へ約百五十坪、八千二百五十余円以上の代金で売り払い、牛込区肴町(現・新宿区神楽坂五丁目)に転居する。漱石もそれまで続けていた仕送り(毎月十円)の必要なくなる。その前後、貸与金返済(毎月七円五十銭)も完了する。その結果、経済的に余裕ができ、書籍代や貧しい学生の学費を補ったりする。(平岡敏夫「漱石における家と家庭」)」(荒正人、前掲書)


6月30日

啄木(12)、伊東圭一郎と共に盛岡中学受験準備のため菊池道太経営の学術講習会(のちの江南義塾・私立岩手橘高校)に入る。


つづく


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