2024年8月12日月曜日

大杉栄とその時代年表(220) 1897(明治30)年8月1日~29日 秋山真之、アメリカ留学に出発 「君を送りて思ふことあり蚊帳に泣く」(子規) 漱石、子規庵句会(例会)に出席 木下尚江入獄 両国橋欄干崩落事故 島崎藤村第1詩集「若菜集」 

 

秋山真之

大杉栄とその時代年表(219) 1897(明治30)年7月1日~31日 有島武郎、内山鑑三を訪問 職工義友会を労働組合期成会と改称 漱石、妻鏡子を伴って上京 鏡子が流産 漱石を迎えての子規庵臨時小集句会 より続く

1897(明治30)年

8月

朝鮮、独立協会主催の定期的公開討論会始まる

8月

子規、月給37円。

8月

虚子、『国民新聞』の俳句選を担当する。

8月

漱石、樋口一葉の全集を買い、『たけくらべ』など最も感心し、男でもこれだけ書ける者はいないという。(鏡子が中根倫から聞く)

広津柳浪『今戸心中』(『文芸倶楽部』明治29年7月)にも感心する。

8月

国木田独歩「源叔父」(「文芸倶楽部」)。花袋と日光滞在中に執筆。

大杉栄(12)、次弟浜の森川銀四郎を訪ね「荒木新流棒術目録」を授けられる。

8月

~10月。フィリピン、ルソン島全域でゲリラ戦が激化。

8月1日

漱石、子規に宛てて手紙。前日の訪問の礼状。

8月2日

日本勧業銀行開業

8月4日

後藤象二郎(60)、没

8月4日

フィリピン、パテルノの和平工作はじまる。 

8月5日

秋山真之、アメリカ留学に出発


「日清戦争に少尉として参戦、砲艦「筑紫」艦上で勤務した秋山真之は、明治二十九年秋大尉に進級、明治三十年、アメリカへ留学生として派遣された。このとき村上格一がフランスへ、林三子雄がドイツへ、財部彪がイギリスへ、広瀬武夫がロシアへと、同時に派過された。秋山、村上、林、財部は兵学校でトップまたはトップクラスの成績であったが、広瀬は違った。中位にすぎなかった。しかし、日露戦争が必至と見られるときこそ敵を知らなければならぬ、と日頃からロシア語を勉強していた態度、剛毅さと柔軟さをあわせもったその人となりが認められたのである。

明治三十年夏、すでに病床から立つこともままならなかった子規は、「秋山真之ノ米国ニユクヲ送ル」という詞書のもとに、惜別の一句を贈った。


君を送りて思ふことあり蚊帳に泣く


「日本」紙上に掲載されたこの句を秋山真之は知らずにいて、ワシントンの日本公使館を訪ねた日本人から教えられた。それは身にしむ一句であった。活動的な性格の子規こそ外国が見たかったであろう。それが思いもよらぬ病身となって、ただ中庭の草花を友として生をつないでいる。さぞ無念であろう、と真之は同情した。」(関川夏央、前掲書)

8月6日

鉱毒被害民運動家、宇都宮に行って県知事に面会し「復旧添書ヲ願へシ処、早速承知シテ是添書セリ」、この添書をもって上京した。一方、群馬県知事からの添書はこの日までにもらえず。


8月6日

請願書をもって大蔵省に出頭し大臣に面会を求めたが、不在のこともあり、結局は目賀田主税局々長に請願書を渡す。また陸軍省・農商務省・内務省・内閣調査員・神鞭知常(鉱毒調査会委員長)にも請願書を渡す。

8月7日

午後、漱石、子規庵句会(例会)に出席、第一回運座では最高点。第二回運座では正岡子規が最高点。9時散会。

8月8日

山口県仁保、隕石落下(仁保隕石)。重量0.467kg。

11日、福岡の東公園、隕石落下(東公園隕石)。重量0.75kg

8月8日

ブルクハルト、没。

8月9日

鉱毒被害民運動家、内務省に出頭し、「県治属官高橋氏面会シテ復旧ノコト陳情」、内閣法制局でも神鞭知常氏に面会して、復旧のことを陳情した。


8月10日

農商務省に出頭し、鉱毒被害土地復旧請願陳情のため次官に面会を求めたが会えず。


8月11日

農商務省に出頭し、鉱山での予防工事視察に行くことについて鉱山局長の証明書をもらおうとする(「農商務省出頭シ、鉱毒口デ工事視察ニ参ルニ付キ鉱山局長ノ証明ヲ貰ウニ付キ出頭」)。

8月10日

木下尚江、長野県議選関係の恐喝詐偽取財容疑で入獄。


〈木下尚江のこれまでの略歴〉

1869年(明治2年)10月12日(旧9月8日)、信濃国松本天白丁(現松本市北深志2丁目4番26号)に生まれる。父は松本藩足軽の木下秀勝、母はくみ。

1876年(明治9年)3月20日、新築の開智学校に入学

1881年(明治14年)秋、松本中学校に入学

1885年(明治18年)、飯田事件の被告を目撃し感動。クロムウェルを知り、「国王を裁く法律」を学ぶ決心

1886年(明治19年)

2月13日、長野県中学校松本支校を卒業

3月、東京の英吉利法律学校(現中央大学)に入学

4月、東京専門学校(現早稲田大学)法律科に転学

1887年(明治20年)10月21日、父が胃癌で永眠、心の空洞を体験

1888年(明治21年)

7月20日、東京専門学校邦語法律科卒業

11月頃、『信陽日報』(松本)記者となる

1890年(明治23年)

夏、県庁移転問題で排斥され『信陽日報』廃刊

秋頃、キリスト教の博物書を読み神の存在を信じる

1891年(明治24年)

松本町、長野町、新潟県高田町で禁酒運動・廃娼運動に取り組む

『信府日報』主筆石川安次郎と松本公友会を開催

1893年(明治26年)

1月28日、代言人試験合格

2月、松本の大名町に木下法律事務所を開設

4月、『信府日報』主筆を兼ねる(のちに『信濃日報』と改題)

5月1日、弁護士登録(3月4日に代言人規則廃止、弁護士法公布のため)

10月22日、洗礼を受ける

1897年(明治30年)

7月、中村太八郎らと松本普通選挙期成同盟会を結成

8月10日

両国橋欄干崩落事故。この年の両国川開き(花火大会)は、悪天候続きのためこの日に延期。待ちに待った花火なので、両国橋の上には、大勢の見物人が集まる。花火の最高潮の頃、風にあおられて、数個の火の粉が両国橋の北側に落ちる。これを避けようとした群衆が一斉に南側へ押し寄せたので、南側の欄干際にいた見物人が押し潰され、その圧力により欄干が崩落。数百人が隅田川へ転落。死者・行方不明者36人の惨事とる。

8月11日

赤松常子、智城の妹として山口県に誕生。労働運動家・社会党参議院議員。

8月19日

加藤拓川(38歳)結婚。

8月22日

漱石、子規庵臨時中集句会に出席。運座2回、9時散会。

8月24日

陸奥宗光(54)、没。

8月26日

広瀬武夫大尉(30)、ロシア研究留学、ペテルブルク着。

8月26日

徳富蘇峰、内務省勅任参事官に就任。

8月27日

パレスチナ、世界シオニスト機構発足。

8月28日

西村栄一、誕生。

8月29日

島崎藤村第1詩集「若菜集」(春陽堂)。初出は「文学界」1896年(明29)9月~97年3月。

8月29日

バーゼル、ユダヤ人ジャーナリスト、テオドール・ヘルツル(37)、第1回シオニスト会議主宰。

8月下旬

(日不詳) 石川県宇出津で婦女500人、米商へ示威を行う。その後、11月中旬まで各地で米騒動起る。


つづく

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