1898(明治31)年
4月25日
米西戦争開始。
米国が帝国主義列強の仲間入りをする契機となり、米国とカリブ海地域との関係史の出発点になる。
〈米西戦争に至る経緯(1)〉
〈スペインの凋落〉
大航海時代にコロンブスがバハマ諸島東端のサンサルバドル島に上陸(当初、それを香料諸島のインドと勘違いしてそこに住む原住民を「インディアン(インドの人々)」と呼んだ)。それ以降、スペイン軍人コルテスの「アステカ文明の発見と征服」を皮切りに、南北アメリカ大陸の大部分にまで及ぶ金・銀鉱山の盗掘、先住民を奴隷化して金・銀を掘らせるエンコミエンダ制を実施し、その金・銀をセビリャ港に運び出した。本国ではその金・銀で貨幣を大量に鋳造し、それを海軍力の増強や植民地拡大のための戦費に充てた。こうして近代16~17世紀のスペイン帝国は繁栄した。
しかし、オランダ独立戦争においてオランダ・イギリスの連合軍にドーバー海峡で敗北し、オランダの独立を許した。これ以来、香料諸島の植民地支配の主導権はオランダに奪われ、ポトシ銀山を始めとする南アメリカ各地の金・銀の産出量は減少し、海軍力は既に世界一の座から落ちるという具合に、明らかに衰退していった。
19世紀末から20世紀に入ろうとする頃、既にスペインにかつての大帝国の面影はほとんどなかった。東南アジアではフィリピンが残るのみで、太平洋・アフリカ・西インド諸島にはほんの少数の散在した植民地しか残らなかった上に、その多くも独立運動を繰り広げていた。
キューバとプエルトリコは最後まで植民地の地位に留まり、大陸での独立運動を鎮圧するための遠征軍の基地にもなっていた。これは、18世紀末までに政治の実権を握ったキューバ人の白人支配層であるクリオーリョ達が、キューバに野心を抱く欧州列強の支配下に入るくらいならばスペインの植民地のままでいた方が良いと考えたこと、砂糖農園で働くアフリカ人奴隷の反乱を恐れ母国スペインの保護を求めたこと、スペインが「西インド諸島の真珠」と形容されたキューバに大軍を駐留させていたことなどが、その理由としてある。
砂糖、コーヒー農園主であるクリオーリョ支配層は、自由独立運動が引き金になって奴隷の反乱を招いたフランスの植民地ハイチの様に、経済体制が崩壊することを懸念し、独立に賛成しなかった。しかしそれでも1808年頃よりキューバでも米州大陸の例にならいスペインから分離しようとする動きが始まった。
〈第一次キューバ独立戦争(「10年戦争」)〉
1868年10月10日、砂糖工場所有者カルロス・マヌエル・デ・セスペデスは、同志37人と共に行動を開始。自分の工場の奴隷を解放して147人の反乱軍を組織。ヤラを制圧しスペインからの独立と奴隷の解放を宣言した。これらの動きは数日間で鎮圧されたが、バヤモに急行して反乱軍の拠点を確保。オリエンテ州で支持を得て、独立運動はキューバの東部地域全体に広がり、10月終までに参加者は約12,000人にまで増加した。
同月、マクシモ・ゴメスは農民を山刀(マチェテ)で武装させて待ち伏せて接近戦を挑む作戦を考案し、スペイン軍兵士に大きな損失を与えた。
1870年6月、ゴメスはオリエンテ地区司令官に就任。
反乱軍拠点バヤモは1869年1月12日、スペイン軍が奪還したが、市民によって市内は焼き払われていた。
東部の蜂起に続き、2月頃、中部のカマグエイ州でも反乱開始。
各地の反乱軍・独立運動家が集結してカマグエイ州で開催された議会は4月10日に共和国憲法を発布し、12日にセスペデスを初代大統領に選出した。
その後、セスペデスはオリエンテ軍司令官ゴメスを1872年6月に命令違反から左遷する。しかし、セスペデス自身は、1873年10月27日、保守勢力が多数派を占める議会で敵対姿勢を取った事で独裁的権力が強く批判されて失脚。ゴメスは軍務に復帰するが、議会の圧力もあって西部侵攻作戦は中止される。
新たにスペイン軍総司令官に就任したアルセニオ・マルティネス・カンポスは後退を続ける反乱軍に対して停戦と和解の方針を打ち出し、1878年2月10日、停戦協定が締結。協定では財務状況を改善するための様々な改革が約束され、奴隷制度の廃止も合意された。10年間の戦争で約20万人が命を失った。
〈第二次キューバ独立戦争〉
1886年10月に奴隷制度が廃止され、元奴隷は農民や都市労働者階級の仲間入りをした。多くの裕福なキューバ人が財産を失い、都市の中産階級のに入った。スペイン本国は奴隷解放の方針)を除き、キューバ人に約束した自治や貿易の自由化などの改革を認めず、キューバ側に大きな不満を残すこととなった。砂糖プランテーションを主に、アメリカ合衆国の金融資本が大量に流入し始めた。キューバは政治的にはスペインの植民地のままであるが、経済的にはアメリカとの結びつきが強まるという矛盾が顕著になっていた。
その矛盾の中で再び独立戦争が始まった。この戦争を指導したのは、マルティ、ゴメス、マセオ、ガルシア等第一次独立戦争(「10年戦争」)のベテラン達であった。マルティは、「10年戦争」によって荒廃した国内のタバコ業者がフロリダのキーウェスト、タンパ等に移住していたため、その下でタバコ労働者として働くキューバ人を1892年1月キューバ革命党に組織し、独立運動の準備を整えた。そしてニューヨークを拠点に米国から資金、武器、兵員を補給する体制を構築した。
1895年2月24日、反スペイン蜂起が各地で発生、第二次独立戦争が開始。
マルティは3月25日に競合する革命軍指揮者マクシモ・ゴメスの賛同も得てドミニカ共和国でモンテ・クリスティ宣言を発表、平等な世界を実現するために歴史的任務として戦闘状態に入る事を表明。
4月1日、キューバへ向けて出発したマルティとゴメスら6人は、4月11日にキューバ東部の海岸に上陸、進軍を開始。
マルティは5月19日、バヤモの東16kmにあるドス・リオスでスペイン軍の待ち伏せを受けて戦死。
彼の意思を継いだゴメス、マセオ、ガルシア等の将軍達はゲリラ戦を継続した。「ブロンズ色のティタン」と言われ、その勇猛果敢ぶりを恐れられた黒人のマセオは、「トロチャ」と呼ばれた東部を隔絶する大防衛線を突破し、西部大侵攻作戦を展開するなど、独立軍は「10年戦争」の反省の上に立って、戦場をキューバ全土に拡大した。ゴメス最高司令官はキューバ経済とスペインの植民地統治がよってたつ砂糖農園を焼き討ちする作戦を命じた。その結果砂糖生産は平時の3分の1にまで減少した(但し戦争税を払う農園には危害を加えなかった)。今度は「10年戦争」よりはるかに多くの黒人、農民等下層の住民が独立運動に参加した。
マセオは1895年12月7日に戦死して西部戦線が崩壊していく中、ゴメス率いる部隊はスペイン軍に対する攻撃を継続、以降、膠着状態となる。
つづく
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