1897(明治30)年
4月16日
岡崎嘉平太、誕生。
4月16日
漱石の子規宛て手紙。久留米の古道具屋で入手した士朗・淡々の2軸を慰めのため贈る。
「三月末から四月初めまで春休み(日不詳)、久留米に行き、結核で第五高等学校を休職し、郷里で療養していた菅虎雄を見舞い、高良山(三百十二メートル。久留米東南四キロ耳納連山西端)に登り、発心山(六百九十八メートル。高良山の東約五キロ)の麓(現・発心公園)に桜を見物し、久留米市の知新堂に立ち寄り、井上士朗(正春)と松木淡々(伝七)の軸を手に入れる。(この時の見聞は、『草枕』に活かされる)」(荒正人、前掲書)
4月16日
フランツ・ヨーゼフ、カトリック社会党カール・ルエーガーのウィーン市長就任を承認。5度目の選挙でも圧勝。ウィーンの街の近代化に貢献。市営ガスによる街灯・照明の改善、市街電車普及、小学校増設など。
4月18日
漱石、子規へ句稿その二十四 51句を送る。
4月18日
クレタ島反乱軍援助のためギリシア(首相デリイアニス)がオスマン帝国に宣戦布告(「30日戦争」開始)。ギリシャは「マケドニア問題」からセルビア・ブルガリアの支持が得られず、テッサリア地方ではドイツ士官指導のオスマン軍に連敗。5月19日シチリアで停戦協定調印。
但し、クレタ島には早い段階で6ヶ国連合軍が派遣されており、翌1898年、オスマン軍を撤退させた上でのオスマン帝国の宗主権を認め、ギリシア国王次男を高等弁務官とする自治体制が整えられる。しかし、テッサリア地方はオスマン帝国に有利な形で国境修正、更に莫大な賠償金支払い義務が生じる。ギリシア財政は破壊的なものとなり、賠償金支払いを監督する列強の国際財政管理委員会が内政干渉を行う。多くの農民が海外へ移民する(1906~14年のギリシア人移民は総人口の1割以上という)。
4月19日
瓜生岩子(69)、没。日本のナイチンゲールといわれる。
4月20日
衆議院副議長・島田三郎が、被害地検分
4月20日
子規、医師に面会と談話を禁止されたので、「対談を御断り申候 四月二十日」と貼紙をした笠をおもてに出す。しかし、余りに不愛想なので、その下に「爾(ナンヂ)語(カタ)レ我之ヲ聴力ン 我黙ス爾之ヲ聴ケ」という文句を碧梧桐に書かせて追加する。
4月20日
この日付け子規の虚子宛の手紙
「夏目に東京へ出るやうにすゝめ候へども、今の學校への義理ありとて東京のよき口まで断り候由義理堅き男に候」
4月20日
国木田独歩(26)と田山花袋(26)、日光へ出発。照尊院の離れに入る(40日間で8円)。6月2日東京へ引揚げ。
4月20日
ニーチェ母フランツィスカ、没。
4月23日
東京朝日新聞、前日の八王子大火の報道に初めて伝書鳩を使って記事を送る
4月23日
この日付け漱石の子規宛て手紙。
「‥実は去年十月頃教師をやめたいが好分別はなきやと中根に相談致し候処外務の翻訳官に依頼し直きたり(多分小村なるべし)と申し越したり尊叔が課長なれば非常の好都合なれど自信なき事に周旋を頼み後に至り君及び加藤氏に迷惑がかゝりては気の毒故其職掌事務等詳細の事柄分り是ならば随分君の面目を損する事なく遣って行けるといぶ見込がつく迄は先づ差し控た方が可然(しかるべく)と愚考致候」
「・・・・・単に希望を矑列(ろれつ)するならば、教師をやめて単に文学的の生活を送りたきなり。換言すれば文学三昧にて消光(せうくわう)したきなり。月々五六十の収入あれば、今にも東京へ帰りて勝手な風流を仕る覚悟なれど、遊んで居(お)つて金が懐中に舞ひ込むといふ訳にもゆかねば、衣食丈は少々堪忍辛防して何かの種を探し(但し教師を除ク)、其余暇を以て自由な書を読み、自由な事を言ひ、自由な事を書かん事を希望致候。」
「序に伺候一葉集といふ俳書は前後両篇にて壹圓貮拾銭位ならば高くはなきや又芭蕉句解も八十銭位で相當の價なりや両書共久留米で見當たれど高さう故買はなんだ安ければ今から取寄せる積りなり」
「四月二十三日付漱石の子規宛書簡によれば、子規の叔父加藤恒忠が外務省で課長をやっているので、その伝手で漱石に翻訳官はどうだろう、と心配してきたのに、漱石は自信と勇気がない、と丁重に辞退している。また漱石は、岳父中根重一を介して、東京高等商業学校(のちの一橋大学)校長小山健三から年俸千円で、という招きがあった。漱石は第五高等学校への義理と、友人山川信次郎を五高へ世話した信義から断ったことを記している。」(中村文雄『漱石と子規、漱石と修 - 大逆事件をめぐって -』(和泉書院))
高等商業以外にも仙台の第二高等学校の口もあったが、漱石は五高への義理からほかの学校へは行けないと断わった
4月24日
金井延、織田一、鈴木純一郎、田島錦治、小野塚喜平次、高野房太郎、高野岩三郎、例会で協議し会の名称を「社会政策学会」と決定。
学会には、佐久間貞一・片山潜・高野房太郎ら労働組合期成会の主要メンバーも参加。社会政策学者は、欧米の労働問題の実情に鑑み、資本主義制度を維持する見地から、国家の介入による社会問題の解決を望み、その方向を研究している。かれらは、当初、期成会の演説会にも出席し期成会の活動に好意的な態度を表明している。
4月26日
国会図書館、開館。
4月27日
東京事務所に詰めていた栃木県足利郡(旧梁田郡)久野村在住の室田忠七の鉱毒事件日誌
「大蔵省出頭シ地租ノ免租・減租ノ願書奉差シ、且ツ大臣ニ面会ヲ求ムレトモ大臣ハ出省ナキトテ面会ヲ得ス。依テ主税局長目賀田種太郎君面会シ、被害地調書ヲ鉱毒調査ニ参考ノ為メ持参ス。
依テ又陸軍省ニ出頭シ鉱毒被害ノ為メ壮丁充分出来ス、従テ教育ヲ授クルコトモ出来サルコトヲ陳情セ(ン)トスレトモ大臣出省ナシ。
陸軍梅地少佐ニ面会シ右ノ事情ヲ陳テ退省ス」
4月27日
大杉栄(12)、新設の町村組合設立北蒲原尋常中学校(現、県立新発田中高校)に入学。入学後、柔道を講武館師範坂本謹吾から、棒術を坂本の師・森川銀四郎から、しばらくして撃剣を発誠館の今井常固(つねかた)から学ぶ。
4月28日
梨園屯リーダ閻書勤ら「一八魁」、趙三多の了解なく2千人を率い玉皇廟前教会襲撃。教民2殺害。
4月28日
東京事務所に詰めていた栃木県足利郡(旧梁田郡)久野村在住の室田忠七の鉱毒事件日誌
農商務省に出頭し「早川秘書官面会シ鉱毒被害調書ヲ出シテ、鉱毒調査会ニ回サレンコト乞フ。
早川君承知シテ吾々ニ預リ書ヲ渡」す。
4月28日
東郷青児、誕生。
4月28日
フィリピン、ボニファシオ一行、アギナルド派革命軍に逮捕される。
4月30日
東京事務所に詰めていた栃木県足利郡(旧梁田郡)久野村在住の室田忠七の鉱毒事件日誌
「農商務省ニ訪問シ、山林輪伐ハ政□ニ依ルモ政府ハ議会ニ於テ水源涵養ニ関係アル故ニ深山輪伐ハ中止シタルト云フニ、昨年ハ足尾銅山辺ニテ非常乱伐セシハ如何ノ理由、山林局長ニ向テ質問ス。
山林局長高橋琢也君答テ曰ク
既ニ政府深山乱伐中止シタリ、昨年切り取りシ(ハ)二十六年払ヒ下タル樹木ナリト答フ」
つづく
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