2024年8月21日水曜日

大杉栄とその時代年表(229) 1898(明治31)年2月12日 子規「歌よみに与ふる書」(その3) 関川夏央『子規、最後の八年』 (講談社文庫) より

 

凡河内躬恒

大杉栄とその時代年表(228) 1898(明治31)年2月12日 子規「歌よみに与ふる書」(その2)   小森陽一『子規と漱石 友情が育んだ写実の近代』(集英社新書)より より続く

1898(明治31)年

2月12日 

子規「歌よみに与ふる書」(その3)

■関川夏央『子規、最後の八年』 (講談社文庫) より


「第一回は、こう書き出されていた。


仰の如く近来和歌は一向に振ひ不申候。正直に申し候へば万葉以来実朝以来一向振ひ不申候。

実朝といふ人は三十にも足らで、いざ是(これ)からといふ処にてあへなき最期を遂げられ、誠に残念致し候。あの人をして今十年も活かして置いたなら、どんなに名歌を沢山残したかも知れ不申候。


「再び歌よみに与ふる書」から四日後、二月十八日付「日本」紙面に「三たび歌よみに与ぶる書」が載った。それは四百字詰原稿用紙五枚半ほどで、三月四日付「十たび歌よみに与ふる書」まで不定期連載で十回つづく稿は、だいたいみな同じ長さであった。


前略。歌よみの如く馬鹿なのんきなものはまたと無之候。


「三たび歌よみに与ふる書」の書き出しである。

あえて挑戦的な書きぶりをする子規は、「歌よみに与ふる書」(第一回、以下回数のみでしめす)で『万葉集』と源実朝の歌をはめ、ことに実朝に対しては絶讃の態であった。賀茂真淵は江戸中期、宝暦から明和にかけて活動した国学者で、『祝詞解』『万葉解』などを著し、『万葉集』と実朝の称揚者として名高いが、その「調の弱さ」を叱る。

紀貫之を「下手」といい、「歌よみ」の聖典と目されてきた『古今集』を「くだらぬ」と勢いよく断じたのち、なぜそれが駄目かを論じた(第二回)。要するに「もってまわったいいかた」が気にくわない、というのだ。


桜散る木の下風は寒からで空に知られぬ雪ぞ降りける  紀貫之


貫之の『拾遺和歌集』中にある歌だが、桜の落花を「空に知られぬ雪」としているのはいらざる技巧、「駄洒落」にすぎない、と子規はいう。

貫之は歌の技巧の開発者だからまだよい。しかし、現代の「歌よみ」が貫之ら『古今集』の「糟粕(そうはく)」を嘗(な)めつづけて千年におよぶとは、どういうていたらくか。もともと古今集時代は、中国でいえば宋代のように俗気紛々たる時代で、唐代の詩に較べるべくもない。そんなものを本尊としてあがめ真似る者たちの気が知れない。

「歌よみ」は無知だ(第三回)。和歌ほどよいものはないとうぬぼれているのは、和歌以外を知らぬからにほかならない。俳句と川柳の別も知らず、漢詩を解さず、西洋に詩があることさえ気づいていない。小説や院本(浄瑠璃の詞章すべてを収めた版本。丸本ともいう)も文学だというと「歌よみ」が驚くのには、こちらが驚く

それも「くだらぬ歌書」ばかり見ていて、視野が極端に狭いせいだ。自分の乗った汽車が動いていることを知らず、隣の汽車が動いているのだと信じて疑わぬ。

俳句には調がなく、和歌には調がある。ゆえに和歌は俳句にまさると「歌よみ」はいう(第三回)。

彼らは、なだらかな調のみが調と心得て、迫りたる調、急な調はもとより理解の外にある。迫りたる調、急な調こそ、実に俳句が持つものだ。それでは実朝の歌のよさが「歌よみ」にわからないのも当り前だ。

武士(もののふ)の矢並(やなみ)つくろふ小手の上に霰(あられ)たばしる那須の篠原  源実朝

『金槐集』中のこの歌の緊張した調は、ひとえに名詞の多さからくる(第八回)。

動詞は現在形で二個、「の」の字が三個、「に」の字が一個、それがすべてだ。「なり」「けり」「かな」など、和歌の特徴といえる助辞を使っていないからこそ、「霰の音」が聞こえてくる。助辞の濫用は、宋詩の虚字を用いて弱い詩をつくろうとするのと同断だ。実朝は、これを可能な限り排した。ゆえに彼こそ「千古の一人」の名に値する。

自分は、いわゆる「歌の学問」にはうといが、趣味は一流と自負する。異論のある向きは来訪されたい。「三日三夜なりともつづけさまに議論致可し」(第三回)。


もののふの八十氏川(やそうじがは)の網代木にいざよふ波のゆくへ知らずも  柿本人麻呂


さすが人麻呂というべきか、「一気呵成の調」でしまっている。しかし上三句は贅句(ぜいく)だろう(第四回)。「足引の山鳥の尾のしだり尾の」の場合は、夜の長さを暗示するからよいとして、「もののふの」以下三句には役目がない。この歌を名所の歌の手本に選ぶとは 「大たわけ」というべきだ。

もしほ焼く難波の浦の八重霞一重はあまのしわざなりけり 契沖


いかにも俗人好みの歌である(第五回)。「八重」と「一重」の対比が妙、とでもいいたいのだろうが、そここそが当方の攻撃したいところだ。

だいたい八段に分かれた霞などあるものか。分かれていもしないのに、そのうちの一重とは何か。塩焼きの煙が霞の上にたなびいている。そう尋常にいえばよいものを。


心あてに折らばや折らむ初霜のおきまどはせる白菊の花  凡河内躬恒


古今集撰者でもある躬恒の、百人一首にもある知られた歌だが、「一文半文(はんもん)のねうちも無之駄歌」というべきだ(第五回)。

どこにあるかわからぬから手探りで花を折るという。しかし、初霜を置いたくらいで白菊が見えなくなったりするものか。つまらぬ嘘だ。殺風景だ。どうせ嘘をつくなら、とてつもない大嘘をつきたいものだ。雀が舌を切られたとか、狸がばあさんに化けたとか。

そうでなければ「有の儘」に正直に詠むべし。「露の音」「月の匂」「風の色」、みなおもしろからぬ嘘の文飾にすぎない。「小さき事を大きくいふ嘘が和歌腐敗の一大原因と相見え申候」

(略)

子規は、自分が排斥するのは和歌に見られる理屈の部分であって、感情の部分ではないという(第六回)。そのうえで、和歌こそ「日本文学の城壁とも謂ふべき国歌」であるとはどういすことか、と「歌よみ」に問う。

代々の勅撰集が城壁ならば、まさに大砲一発で砕けるであろう。和歌をもって日本文学の城壁とし、基礎となそうとするのは、弓矢剣槍の戦とおなじではないか。明治という現代の戦ではあり得ぬ。

子規はつづける。

自分は「国歌」を破壊しようと考えているのではない。この城壁を、もう少し堅固なものにしたいだけだ。軍艦と大砲を買って国の備えとするには金がかかる。だが外国の文学・思想を輸入して城壁を固めようとするのに、さしたる費用はかかるまい。

現代において「和歌」とは「陳腐」の代名詞にほかならないのが実情だ(第七回)。

「歌よみ」以外はみなそう考えている。なぜか。歌の趣向に変化がないからだ。趣向に変化がないのは、用語が少ないからだ。

外国語からも外国の文学からも用語を入れよ。漢語の詩、英語の詩、サンスクリットの詩、なにをつくっても日本人がつくれば日本文学だろう。英国の軍艦、ドイツの大砲を買って戦争に勝っても、日本人が運用したのなら日本の勝ちであるのとおなじように。

「国粋」でいきたいと「歌よみ」はいうが、現実に、馬、梅、蝶、菊、文などの漢字語を除いては、『源氏物語』『枕草子』以来、なにも書けぬではないか。漢語、洋語、和語の別によらず、「美の意を運ぶに足るべき」語はみな「歌の詞」なのだ。

「深見草」などといわず、漢語で「牡丹」と言え(第十回)。牡丹という語は、たちまち牡丹の花の幻影を人に見せるが、深見草ではそうはいかない。そうして「牡丹」の語は音も強く、かの花の大きくて凛としたところによく添う。

子規は実朝についで西行をほめる(第九回)。


さびしさに堪へたる人のまたもあれな庵(いほ)を並べん冬の山里   西行


知る人も少ないこの歌の(と子規は書く)、「庵を並べん」が趣味ある趣向の見本といえる。「山里」に「冬の」と先立たせるところなど、尋常の「歌よみ」ではない。

歌は万人のものだ。断じて、えらい「歌よみの」専有物ではない(第十回)。老人などに構わず、少年青年は勝手に歌を詠むべし。昨今の漢詩の隆盛、俳句の新風、どちらも老人や月並運を無視して若者が自由に詩をつくった結果ではないか。」(関川夏央『子規、最後の八年』 (講談社文庫) )


つづく



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