大杉栄とその時代年表(238) 1898(明治31)年4月25日 米西戦争開始 〈米西戦争に至る経緯(2)〉 〈第二次キューバ独立戦争(2)〉 キューバ独立運動が米国とスペインの問題にすり替る より続く
1898(明治31)年
4月27日
(露暦4月15日)エドゥアルト・トール、ロシア地理学協会にサンニコフ島探検計画提出。科学アカデミー、ロシア政府も計画を許可。
4月28日
佐伯祐三、大阪府西成郡中津村(現在の北区中津2丁目)の浄土真宗本願寺派光徳寺の次男(4男3女の次男)として生まれる。父は祐哲(ゆうてつ、13代目の住職)、母はタキ。
1912(明治45・大正元)14歳
4月、大阪府立北野中学校へ入学。野球・水泳・ヴァイオリンに興味を持ち、ずぼらな性格から「ずぼ」とあだ名された。
1915(大正4)17歳
4年生頃から油絵を描き始め、赤松麟作(りんさく)の洋画塾に学ぶ。父から医者になることを期待されたが、画家を志望する。
4月30日
大蔵省、鉱毒被害民に対して地祖条例による普通荒地免租処分を通達。該当者は公民権喪失。
4月30日
トラピスト女子修道院、函館郊外湯の川に設立。
5月
5月から7月上旬までの間(不確かな推定) 漱石、狩野亨吉・山川信次郎・奥太一郎・木村邦彦と共に朝早く小天温泉に行き、湯の浦の別荘で昼食をして、前田案山子の本宅を訪ねる。岩戸観音や鼓が滝などを見て、前田家の長女前田卓(つな)子は河内(河内吉野村)まで見送る。金峰山の二ノ岳(熊ノ岳、685m)と三ノ岳(那智ノ岳、684m)の間の鎌研坂(かまとぎざか)を通って熊本に帰ったらしい。
5月
ゴーギャン(50)、タヒチ、パペーテの公共土木事業局で働く。
5月1日
〈米西戦争(フィリピン)〉
フィリピンにおける最初の戦闘、マニラ湾海戦が勃発。香港を出港したジョージ・デューイ提督率いるアメリカ太平洋艦隊が、マニラ湾でパトリシオ・モントーホ提督率いる7隻のスペイン艦隊を攻撃。6時間ほどでスペイン艦隊は旗艦を含む3隻が沈没し、4隻が炎上するなど壊滅状態に陥る。一方のアメリカ艦隊の被害は負傷者7名のみとほぼ無傷であった。
これによりフィリピンのスペイン海軍は壊滅したが、マニラには1万人以上のスペイン陸軍が駐留していた。海戦後にデューイと会談し、勝利の暁に独立させると約束されたフィリピン独立運動の指導者エミリオ・アギナルド率いるフィリピンの民族主義者は、アメリカ軍の支援と相互連携してスペイン軍を攻撃した。
独立軍は1万人を超え、1898年6月にはルソン島中部を制圧し、アギナルドはフィリピン共和国の独立を宣言して暫定政府を組織した。
アメリカ本国のマッキンリー政権はマニラ市を占領するためウェズリー・E・メリット少将の指揮で大規模な派遣軍(正規軍5千人を含む2万人規模)を派遣した。
6月30日に派遣軍の先発部隊、7月半ばにはメリット少将も現地に到着し、8月にはスペイン軍に降伏勧告を行い、14日に休戦協定が決定した。
フィリピン人による報復を恐れたスペイン軍は、マニラへフィリピン軍が入城しないことを降伏条件としており、スペイン降伏後のフィリピンの統治はアメリカが握ることとなった。これはフィリピンの独立運動の対象がスペインからアメリカへ移っただけであり、その後、米比戦争へ繋がることになる。
5月3日
「歌は俳句の長き者、俳句は歌の短き者なりと謂ふて何の故障も見ず」(子規「人々に答ふ、二一」(『日本』5月3日))
5月5日
自由党大会、伊藤内閣反対を決議。
5月7日
清から、軍事賠償金の残り1192万ポンドが支払われ、完済
5月10日
閣議、井上馨蔵相の財政方針を了承。
①歳入不足のため地租・酒税を中心に3千万円増税。②外債募集のための調査開始。
5月14日
朝鮮、徐載弼、中枢院顧問を解任され大韓帝国から追放される。この日、ソウルを去りアメリカに渡る。
徐載弼に代わって、尹致昊が指導的な役割を担うことになる。尹致昊は、万民共同会以後「自主独立」を築いていく目標として、中枢院を議会に昇格させて参政権獲得を目指す議会設立運動を展開し、また独立協会の結束を固めるために「議会院を設立することが政治上一番の要務」というテーマで討論会を開催した。
独立協会の運動形態は、それまでの啓蒙活動を中心とした運動から、政治的な運動に展開し、主たる運動が文化的ナショナリズムから政治的ナショナリズムへと転換してゆく。
5月16日
溝口健二、東京に誕生。
5月18日
清、山東巡撫張汝梅の上奏文。村民・教民は平和状態。一昨年の大刀会事件は不良教民が教会の権威を借りて平民を欺き圧迫したため。ドイツ公使・宣教師はこの不良教民に加担、と非難。
5月18日
ロマン・ロラン(32)戯曲「狼」上演。ドレフュス事件の精神的高揚の中で執筆、ペギーの書店より出版。
5月19日
米西戦争(キューバ)。パスクワル・セルベラ提督率いるスペイン大西洋艦隊がサンチャゴ湾に入港。ウィリアム・サンプソン提督率いるアメリカ大西洋艦隊はサンチャゴ湾を封鎖し、陸海軍共同でスペイン艦隊を攻撃することになる。
5月19日
第12議会開会。
衆院議長:自由党(後に憲政党、政友会)片岡健吉、副議長:元田肇。
6月7日、自由・進歩両党提携して地租増徴案否決。10日、国会解散。
第3次伊藤内閣、地租増徴案を提出。自由・進歩両党と対決。国民協会・山県系は完全に政府支持にまわる。大浦は佐々に宛てて、「扱日比谷原もいよいよ開幕、楽屋ノ筋書等不一方之御配慮ニテ種々好都合ニ相運候事卜存候。大関之腹ノ段も先ツ上出来目出度存候。此次迄ニハ我国体ヲ隆盛ナラシメ、是非横綱ヲ出シ度今ヨリ切望不堪候」(「大関之腹」:板垣入閣に反対し、増税案を議会に提出するイニシアティブをとった蔵相井上の態度)と書く。大浦は井上蔵相を評価し、「過日井伯ノ財政計画果シテ積極ニ出テ流石ニ面白敷存候」と書く。「横綱」は山県のことで、大浦は伊藤内閣の超然内閣化を、山県内閣への道を準備するものとみる。
しかし、自由・進歩両党は連合してこれを否決、両党間には合同の気運が起り、伊藤が議会を解散するや、6月22日新党が結成される。かつての初期議会における民党連合が、単一政党たる憲政党として蘇る。
5月23日
第12議会。大竹貫一議員、高野問題に関連して台湾在任の裁判官の身分保障について質問。内閣は直接回答せず。
5月24日
子規『ベースボールの歌』(新聞『日本』)
ベースボールの歌
久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも
国人ととつ国人とうちきそふベースボールを見ればゆゝしも
若人のすなる遊びはさはにあれどベースボールに如く者はあらじ
九つの人九つのあらそひにベースボールの今日も暮れけり
今やかの三つのベースに人満ちてそヾろに胸のうちさわぐかな
九つの人九つの場をしめてベースボールの始まらんとす
うちはづす球キャッチャーの手に在りてベースを人の行きぞわづらふ
うちあぐるボールは高く雲に入りて又落ち来る人の手の中に
なかなかにうちあげたるは危かり草行く球のとゞまらなくに
5月24日
足尾銅山鉱業停止東京事務所に詰めていた栃木県足利郡(旧梁田郡)久野村在住の室田忠七の鉱毒事件日誌より
5月24日~26日 東京にて貴・衆両院議員への働きかけを行う。訪問した代議士は衆議員3名、貴族院議員16名である。この中に貴族院議員を兼ねている内務省土木局長・古市公威も含まれている。
5月27日 貴族院へ、「被民救済・被害地土地恢復・河身改良・堤防増築・損害賠償」の請願書を議員子爵・谷干城の紹介で提出する。
5月28日 23人の衆議院議員の紹介で、衆議院に「被害地救済請願」を提出。この衆議員の中に鉱毒調査会の委員であった肥塚龍も含まれている。"
5月29日
(光緒24年4月10日)恭親王(67)、没。西太后と光緒帝の対立の調停者。
5月29日
この日付け子規の漱石宛手紙。庭前の椅子に腰掛けたこと、果物の常食中止などを報告。
「漱石が子規を「蕪村以来の俳人」といったが、答えにためらって御無沙汰したこと、近所の火事見舞い挨拶、虚子、鳴雪、碧梧桐、紫影などの近況を知らせた後に、
「此頃ハ庭前に椅子をうつして室外の空気に吹かるゝを楽ミ申候 昨今ハ丁度昨年発熱の満一年なれハにや多少発熱あり さなくとも時候柄なまける時なれば身体よわりてよわりて何も手につき不申候」、
「本月初以来葉物の常食やめ候ところいよいよ元気欠乏致候」
などと記し、次の句を添えている。
薔薇散るやいちごくひたき八ツ下り
若葉風病後の足のおはつかな」(中村文雄『漱石と子規、漱石と修 - 大逆事件をめぐって -』(和泉書院)、一部に改行を施す)
5月30日
池辺吉太郎(三山)、『大阪朝日新聞』本社から『東京朝日新聞』の主筆となる。
0 件のコメント:
コメントを投稿