2024年8月6日火曜日

大杉栄とその時代年表(214) 1897(明治30)年3月22日~31日 梅花拳趙三多が反教会闘争指導者となる 新聞紙条例改正 第一次鉱毒調査会設置 鉱毒被害農民「第2回押し出し」(「川俣ノ橋ヲ渡リ上京セシ者千人余リ」) 森鴎外(35)陸軍一等軍医正 松方内閣での進歩党員の大量任官  

 

義和團的首領趙三多

大杉栄とその時代年表(213) 1897(明治30)年3月1日~18日 ロシア「東清鉄道会社」設立 片山潜、キングスレー館を開く 南方熊楠、ロンドンで孫文と親しくなる 足尾鉱毒被害農民の第1回「押し出し」(大挙上京請願運動) 足尾銅山鉱毒停止期成同盟会創立  谷千城・津田仙・栗原彦三郎・榎本武揚(農商務大臣)の鉱毒現地視察 より続く

1897(明治30)年

3月22日

中国、梅花拳・趙三多、山東省梨園屯の玉皇廟で「亮拳」(拳法公開試合)

教会・地方官へのデモンストレーション。3千人。監視に派遣されていた兵100は逃亡。(日清戦争敗北の不安を背景に教会勢力が拡大。冠県では教会・地方官の連合に対抗すべく、趙三多に援助を要請。指導者は梅花拳に入る)

(冠県における教会と村民の確執・前史):

1850年代、東省冠県小楼村(梨園屯)の紳士曾公が義学(無料の私塾)を村に寄付。その裏側に天皇廟(道教の主神を祀る)を建立。

1869年、教民がこの「公産」分配を要求。全村200戸中教民は20戸ほど。協議して村民は35畝、教民が3畝をとり分配契約書作成(教民の3畝の一部に義学が含まれる)。教民はこの土地を外国人神父梁宗明に譲る(厳密には不法)。

1873年、梁神父は義学の幾つかの棟を壊して教会を建てようとして村民と紛争。冠県知県は分配契約書をもとに教会建築を合法と裁定。

1881年2月7日、玉皇神会縁日で村民・教民が紛争。山東巡撫任道鎔は教民が他に教会建設するまでの借用としてこれを処理(教民にとっては1873年知事裁定より後退)。

1887年春、神父費若瑟は教会増築を計画するが、村の紳士達が反対(村長左建勛、三街の会主劉長安・閻立業ら)し、府に上訴。東昌府知府洪用舟は、訴えでた6人を半年間投獄。冠県18ヶ村の紳士達が調停して落着。

1889年11月、フランシスコ会山東主教馬天恩が、玉皇廟礎石の上に教会を立てたいと仏公使に要求。公使は総署に圧力をかける。

1892年5月、梨園屯村民は少林拳の一流派梅花拳の趙三多の支援を求める(梨園屯5kmの河北省威県沙柳塞)。村民・教民構想はエスカレート。山東巡撫副潤は指導者逮捕策をとる。冠県知県は道士魏合意を逮捕、並行して東昌府知府・冠県知県が紳士を説得、圧迫。彼らは屈伏し教会建築を承認。以降、梅花拳趙三多が反教会闘争指導者となる

3月22日

日刊英字新聞「The Japan Times」が創刊

3月22日

フィリピン、テヘロス会議。カティプーナンにかわり革命政府を樹立、大統領にはアギナルドを選出。

3月23日

漱石、子規に宛てて手紙。『古白遺稿』のために為替で2円送金した旨知らせる。子規は出版費用として50円を募集。

3月24日

新聞紙条例改正案、公布。

①新聞の発行停止・禁止・発売禁止の行政処分緩和、

②皇室の尊厳に関する取締、など。

宮内大臣事件に現れたように、山県派は発行停止権廃止に対し反撃。政府が第10議会に新聞紙条例改正案を提案した際、清浦と共に「二十六世紀」「日本」発行停止処分を主張した平田東助は、樺山内相に対し発行停止権存置の必要を強調し、議会対策上若干のの緩和措置のみを盛りこんだ提案を示す。内務省内では、宮内大臣事件後山県系の期待を担って熊本県知事から内務次官に就任した松平正直や内務書記官有松英義らが平田と呼応して樺山に圧力を加える。樺山は一旦平田案を内務省案として閣議提出するが、進歩党系内閣書記官長高橋健三・法制局長官神鞭知常らがこれに反撃。

結局、政府原案は行政処分としての発行停止を廃止し、それを司法処分の前提としてのみ期間を限って行いうることとする。更に、衆院の進歩党が政府原案を修正、その結果、限定条件を付しながらも、内務大臣の発行禁止、停止、発売頒布禁止、差押えに関する行政処分権を廃止した新聞紙条例改正が実現。

告発があった場合、内務大臣または拓殖務大臣は新聞の発売頒布の停止、差押えができ、告発の対象となる掲載禁止対象には、陸・海軍大臣が権限を持つ軍事記事に加えて、外務大臣による外交上の記事掲載も含まれることになる。政体改変、朝憲紊乱の論説記載禁止条項には「皇室の尊厳を冒瀆するもの」が加わり、取締りの枠は広がる。

「東京朝日」(18日付)、「・・・鳴呼我輩が憲法に因て賦与さるべき言論の自由は現内閣(松隈内閣)の恵に因て廓開されたり、・・・非立憲的なりし前数内閣に比較して、将た無能と罵られ言責忘却と誹らるゝ現内閣にして、此に其成功を見しを称揚するも不当ならじ」と評価。

三宅雪嶺「同時代史」は、発行停止の廃止は、新聞の勢力を政府が甚だしく憂慮する必要がなくなったからだという。何故なら、「発行停止廃止は新聞の勝利なると同時に、其の主力の変じ、言論本位より報道本位に移るべきを無意識に予告す」るから、つまり、権力の側は、新時代の新聞の性格の変容を見通しており、政府批判の言論だけの新聞は最早立ち行かなくなりつつあるから。

3月24日

政府により第一次鉱毒調査会が設置。内務次官より、群馬県知事石坂昌孝宛に、足尾銅山鉱毒事件につき政府に調査委員をおくので、県下人民の多衆上京、不穏の挙がないよう懇諭するよう通牒。

3月24日

東京事務所に詰めていた栃木県足利郡(旧梁田郡)久野村在住の室田忠七の鉱毒事件日誌


3月24日 「夜十二時、村内一同下早川田雲竜寺前堤防ニ集合シ、夫ヨリ東京木挽町農商務省至リ停止ノ確答ヲ得ントテ出デ警官ノ説兪(論力)ニテ止ル者アリ。川俣ノ橋ヲ渡リ上京セシ者千人余リ(第2回押し出し)

3月29日 「内務省ニ一同訪問ス、法正局長面会ス。埼玉県岩槻ニテ、巡査カ被害人民長嶋与八外二名ニキズツケタルコト陳ブ」

「大蔵省ニ至リ大蔵次官ニ面会、鉱毒ノ為メ地租ノ免租ヲ陳ブ」

3月24日

森鴎外(35)、陸軍一等軍医正となる。

3月25日

第10議会、閉会。

松方内閣での進歩党員の大量任官

閉会後、大石正巳が農商務次官となったのをはじめ、尾崎行雄・高田早苗ら党幹部が政府の枢要ポストに就官。愛知・埼玉など数県の知事にも進歩党負が就任。伊藤内閣では、就官者は板垣以下僅かで、彼らは自由党籍を離れた。しかし、松方内閣では進歩党員が党籍を持ったまま政府部内に大量進出。これを批判する樺山内相・高島陸相ら薩派閣僚は大隈と対立し、松方内閣は亀裂を深める。

3月27日

明治30年度歳計予算(戦後経営第2年度予算)公布。歳入2億4059万・歳出2億4050万円。

3月27日

子規、自宅で腰部切開手術をうける。しかし、改善の兆しは見えない。

3月29日

金本位制確立。貨幣法公布。純金(両目)2分を1円とする。

3月29日

大隈外相、農商務相兼任。

3月30日

大杉栄(12)、新発田高等小学校2学年を終了


つづく




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