2012年8月13日月曜日

川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(31) 「二十一 探墓の興 - 墓地を歩く」(その3)

東京 北の丸公園 2012-08-10
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川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(31)
 「二十一 探墓の興 - 墓地を歩く」(その3)

もともと好きだった展墓趣味が荷風のなかで強まるのは大正12年頃。
ひとつには、この年、関東大震災があり、東京の古い町並みが消滅し、いまや江戸の残り香を求めようとしたら、震災でかろうじて残った寺に行くしかない。
そもそも過去の文人の墓を訪ね歩く掃苔趣味は、江戸の文人趣味のひとつである。文人の風雅である。荷風はそのことに自覚的だった。

「荷風が、関東大震災のあと意識的に寺歩き、慕歩きをするようになったのは、そうすることで失なわれた江戸とつながろうとしたからに違いない。つまり、墓歩きをすることで、荷風は自らを江戸の文人になぞらえたのである。」(川本)

「礫川徜徉記」。
墓歩き、「探墓の興」は江戸時代からあったものだ、という記述。
「掃墓の閒事業(かんじぎょう)は江戸風雅の遺習なり。英米の如き實業功利の国にこの趣味存せず。たまたまわれ巴里にありて之有るを見しかど、既に二十年前のことなれば、大乱以後の巴里の人士今猶然るや否や知るべくもあらず。江戸時代に在りて普く探墓の興を世の人に知らしめし好奇の士は、江戸名家墓所一覧の一書を著せし老樗軒の主人を以てまづはその鼻祖ともなすべきにや。墓所一覧の梨棗(りそう)に上せられしは文政紀元の春なること人の知るところなり」

文人の墓を探ね歩くという「閒事業」(遊び)は、江戸時代からある風雅である。実利優先の英米では、こういう風雅な遊びはない。フランスにはあったが、第一次人戦後の現在もあるかどうか。
「探墓の興」をはじめてあきらかにしたのは、江戸時代の掃苔家老樗軒で、彼の労作『江戸名家墓所一覧』が出版されたのは文政初年の春のことである、と荷風は書く。

老樗軒というひと
昭和15年刊、藤浪和子『東京掃苔録』の復刻版(八木書店、昭和48年)の序文で、森銑三は、
「江戸時代の後期に、老樗軒という畸人が出て、普ねく諸名家の墓を探して廻り、さうして墓所一覧の一書を著した。それよりして老樗軒の後を追ふ熱心家が相ついで現れ、明治には探墓を目的とする会も山来、和紙の機関誌なども出た」
とある。

「日乗」大正13年1月11日
「南葵文庫にて探墓会編纂の墓碣餘志を見る。編者は大江丸旧竹といふ俳譜師なり」
南葵文庫に足を運び「探墓会」の会誌を読んでいる。

「日乗」昭和12年7月2日
老樗軒の名が見える。
「午後森銑三氏来り訪はる。老樗軒のことゞも及山東京伝に関する一二の問題に就いての二冊を贈らる」

「荷風は、江戸時代の掃苔家老樗軒に始まる「探墓の興」を充分に意識しながら墓歩き、寺歩きを続けた。そうすることで江戸文化との連続性を保とうとした。」(川本)

荷風の探基趣味が強まるのは、震災のあとで、とくに大正13年はよく墓歩きをしている。
1月4日、本村町曹渓寺に藤森天山の墓。
1月5日、薬王寺に大沼竹渓の墓。
2月11日、牛込長源寺に館柳湾の墓。
2月14日、牛込光照寺に鈴木白藤父子の墓。
3月12日、北品川正徳寺に南園上人の墓。
4月7日、日暮里経王寺に森春涛の墓。
4月20日、原町本念寺に大田南畝の墓。
7月9日、向島弘福寺に鴎外の墓。
この年、江戸の文人たちを追って東京の寺を訪れているのは、前年大正12年に、鴎外「渋江抽齋」「伊澤蘭軒」などの史伝を読み、自分も江戸文人の史伝を書こうと思い立ったから。
それは大正15年刊「下谷叢話」に結実。

「というのは、墓の墓誌が正確な資料になるからである。その点で、荷風にとって墓歩きとは、史伝執筆のための取材でもあった。江戸文人の足跡を追って、東京のさまざまな墓所に足を運んでいる荷風は、知的好奇心あふれる書生の趣きがある。」(川本)

荷風は墓を訪ねると丹念に墓銘写しとっている。
昭和16年4月1日
西久保の光明寺、儒者の岳清喗の墓石に刻された細井平洲による墓銘を写す。
4月15日、浅草永住町延命院墓地、本草家の井岡櫻仙の墓銘を写す。
10月19日、大塚仲町の善心寺、栗本鋤雲の墓を拝す。
10月27日、谷中三崎町坂上の永久寺に仮名垣魯文の墓を掃い、墓石をスケッチ。
11月5日、品川の東海寺、服部南郭の墓銘を写す。

「ここには、学ぶ荷風がいる。
荷風は、鴎外の 「伊澤蘭軒」などを読むことによって、墓歩きの重要さを知った。荷風の展墓趣味の背景には、鴎外がいる。鴎外の影響がある。」(川本)

「日乗」から殆ど墓歩きの記述がなくなる日。
昭和18年10月27日。
「晴れて好き日なり。ふと鴎外先生の墓を掃かむと思ひ立ちて午後一時頃渋谷より吉祥寺行の電車に乗りぬ」
「歳月人を待たず。先生逝き給ひしより早くもこゝに二十餘年とはなれり。余も年々病みがちになりて杖を郊外に曳き得ることもいつか最後となるべきや知るべからずと思ふ心、日ごとに激しくなるものから、此日突然倉皇として家を出でしなり」
この日、寺の本堂と鴎外の墓をスケッチして日記に添える。

「濹東綺譚」の「作後贅言」。
「花の散るが如く、葉の落るが如く、わたくしには親しかつた彼の人々は一人一人相ついで逝ってしまった。わたくしも亦彼の人々と同じやうに、その後を追ふべき時の既に甚しくおそくない事を知ってゐる。晴れわたった今日の天気に、わたくしはかの人々の墓を掃ひに行かう。落葉はわたくしの庭と同じやうに、かの人々の墓をも埋めつくしてゐるのであらう」

(註)
浄閑寺に墓を作るという夢はかなわず、荷風の墓は永井家の墓所である雑司ケ谷墓地に父母の墓と並んで建てられた。
しかし昭和三十八年五月、森鴎外の長男於菟を委員長に、岡野他家夫、小田嶽夫、野田宇太郎、金山正好、北大路健らが参加した建碑実行委員会の手で浄閑寺の墓地のなかに荷風の文学碑が作られた。詩碑と墓碑から成る。詩碑には「偏奇館吟草」のなかの詩「震災」が、黒御影の面に明朝の活字体で刻みこまれている。「今の世のわかき人々 われにな聞ひそ今の世と また来る時代の藝術を。われは明治の児ならずや」に続く二十五行に及ぶ長詩である。

墓碑はスウェーデン産の赤御影。小さな紙の畳紙(たとう)を型どったものである。
石には自筆の「荷風」という字が刻まれている。この文学碑を設計した谷口吉郎によれば、「『たとう』と言うのは、明治の女性たちが、針仕事の糸巻や針、布ぎれ、その他、身辺の小間物などを包みこむ紙製の袋物である。それは一枚の紙を折りたたんだもので、上部が風車のような形となっている」(谷口吉郎編著『記念碑散歩』文藝春秋、昭和五十四年)。
谷口によれば、「荷風さんにふさわしい、断腸亭好みの意匠を案出したい」という思いから生まれたものだという。この墓碑には遺歯二枚と、愛川の小筆が地下に納められているので筆塚を兼ねている。分骨の碑と考えてもいいだろう。
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