2012年9月1日土曜日
「朝日新聞」論壇時評8月30日高橋源一郎 「新しいデモ」 「変える楽しみ 社会は変わる」
「朝日新聞」論壇時評8月30日高橋源一郎
新しいデモ 変える楽しみ 社会は変わる
報道ステーションという番組に出たとき、「尖閣諸島に香港の活動家が上陸した」というニュースのコメントを求められた。ぼくは正直に「そんなことは、どうでもいい問題のように思う。『領土』という国家が持ち出した問題のために、もっと大切な事柄が放っておかれることの方が心配だ」と答えた。
帰宅すると、ぼくのツイッターのアカウントに数えきれないほどのリプライ(返事)が届き、そこには「非国民」「国賊」「反日」「死刑だ」「お前も家族も皆殺しにしてやる」といった罵倒と否定のことばが躍っていた。
国家と国民は同じ声を持つ必要はないし、そんな義務もない。誰でも「国民」である前に「人間」なのだ。そして「人間」はみんな違う考えを持っている。同じ考えを持つものしか「国民」になれない国は「ロボットの国」(ロボットに失礼だが)だけだ-というのが、ぼくにとっての「ふつう」の感覚だ。
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「3・11」から1年半近くが過ぎて、ぼくたちが生きているのは、欠陥に満ちた社会であったことが、多くの人たちの共通の認識になりつつあるように思う。
それでは、どうすればいいのか。どんな社会をつくればいいのか。
①柄谷行人「人がデモをする社会」(世界9月号)
首相官邸の前に、何万、何十万もの人たちが集まる。そんな風景は何十年ぶりだろうか。長い間、この国では大規模なデモが行われなかったのだ。でも、うたぐり深い人はいて、「デモで社会が変わるのか?」と問うのである。それに対して柄谷行人は、こう答える(①)。
「デモで社会は変わる、なぜなら、デモをすることで、『人がデモをする社会』に変わるからだ」
ふざけて、こう答えたのではない。柄谷は、質問者が想定している回答より、ずっと「本質的」な答えを返したのだ。
「デモで社会が変わるのか?」と問いかけるのは、「それでは、変わらない」と思っているからだろう。あるいは「代議制民主主義の社会だから、その社会を変えるのは、選挙によるしかない」と思っているからだろう。
②佐藤卓己「論壇時評『「孤立的民主主義」はデモで解消するか?』」(東京新聞8月28日付・夕刊)
もちろん、「『デモによってもたらされる社会』は、必ずしも幸福な社会とは限らない」という佐藤卓己の懐疑には、十分な理由がある(②)。「ドイツのナチ党はデモや集会で台頭したし、それを日常化したのが第三帝国である」ことは事実だからだ。
だが、ナチ党が主導したデモや集会は「独裁と暴力」を支えるものだった。いま、ぼくたちが目にする「新しいデモ」は、その「独裁と暴力」から限りなく離れることを目指しているように見える。
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③五野井郁夫『「デモ」とは何か』(NHKブックス、今年4月刊)
「オキュパイ・ウォールストリート(OWS)」運動は、ニューヨークに突然現れ、公園を占拠して、「格差社会の是正」という彼らの主張をデモを含む様々な形でアピールした。その現場を間近で見た玉野井郁夫は、その特徴を簡潔に「リーダーをつくらずコンセンサス(合意)方式で議論を行う『ゼネラル・アセンブリ」(総会)』」に見いだした(③)。そわでわかりにくければ、そこに参加しているひとりの女性に語ってもらおう。
「意見がごちゃごちゃに分かれて複雑になって、ときには時間がかかることもある・・・本当に言いたいことっていうのは言葉のニュアンスのなかにあって、とことん意見を交わさないとなかなか出てこない。そして互いに耳を傾けあうような環境じゃないとね」
ぼくは、ここに、独裁を拒む、もっとも有効な知恵を感じる。
④ジーン・シャ-プ『独裁体制から民主主義へ』(ちくま学芸文庫、8月刊)
一方、ビルマ民主化の影の力となり、「アラブの春」や「OWS」の「教科書」と呼ばれた『独裁体制から民主主義へ』は、独裁に対抗する最大の力は「非暴力」だと宣言している(④)。ナチのデモや集会から80年と少し、前進はあったのだ。
⑤小熊夷二『社会を変えるには』(講談社現代新書、8月刊)
小熊英二の『社会を変えるには』は、五野井よりもさらに広く、深く、「デモをする社会」の可能性を探った本(⑤)。新書としては異例の厚さになったのは、民主主義あるいは政治をその(宗教的な)起源にまで遡って説明しているから。代議制民主主義は、たかだか数百年前に成立した、政治の一形態にすぎないのだ、という。
「参加者みんなが生き生きとしていて、思わず参加したくなる『まつりごと』が、民主主義の原点です。自分たちが、自分個人を起えたものを『代表』していると思えるとき、それとつながっていると感じられるときは、人は生き生きとします」
さらに小熊は「動くこと、活動すること、他人とともに『社会を作る』ことは、楽しいこと」だともいう。誰かが楽しい社会を作ってくれるのを待つのではない。「社会を作る」プロセスの一つ一つが、自分を変え、それに関わる相手を変えてゆく。変わってゆくことは楽しい、と人びとが知ったとき、そこに「人がデモをする社会」が生まれている。
⑥太田昌国「フライデー・ナイト・フィーバーの只中(ただなか)で/あるいは傍らで」(インパクション186号)
長い間、様々な社会運動に関わってきた太田昌国は、「金曜デモ」に遭遇し、その新しさにとまどい、でもそこに「日常生活では味わうことのない『解放感』」を感じる(⑥)。そして、こういう。
「楽しさや解放感がある時の、人間の学び方は、広い。深い。早い」
そこは「相手を罵倒することも否定することもな」い場所だ。そして、そんな場所を作ることだけが、「罵倒と否定」の社会を変えられるのである。
■論壇委員が選ぶ今月の3点
小熊英二=思想・歴史
・中野晃一「『政権交代』とは何だったのか、どう失敗したのか」(世界9月号)
・玄侑宗久「『心的被曝』に喘ぐ福島の現実」(新潮45 9月号)
・相川陽一「山村と地方都市の支えあいをめざして」(ピープルズ・プラン58号)
酒井啓子=外交
・羽根次郎「現代中国を見つめる歴史的視座」(世界9月号)
・タレク・ムラド「チュニジア革命の逆説と希望」(外交7月号)
・吉田徹「欧州ポピュリズムの変貌」(同)
菅原琢=政治
・片山善博、飯尾潤「対談 ”まともな人”が政治家になれない理由」(中央公論9月号)
・五十嵐歌書「消費税が公共事業に化ける時」(世界9月号)
・「特集 激論!日本経済 答えはどこにあるのか?」(週刊ダイヤモンド7月21日号)"
濱野智史=メディア
・佐々木俊尚「『日本の家電』に未来がない理由」(Voice9月号)
・西田亮介「『不自由』な日本の地方--消費社会化は民主主義の敵か」(思想地図β vol.3)
・雨宮処凜「デモのある生きづらくない街」(世界9月号)
平川秀幸=科学
・黒川清「民主主義国家の常識と責任」(同)
・大野光明「大飯原発ゲート占拠・封鎖という『希望』」(インパクション186号)
・最相葉月「子供の権利を忘れた人工授精」(Voice9月号)
森達也=社会
・前田哲男、清水勉、東海林智 座談会「秘密保全法とは何か」(世界9月号)
・ライラ・ハリド、福島被災者ら「パレスチナと福島の対話」(情況7、8月合併号)
・特集「戦争に行くってどういうこと?」(ジュニアエラ9月号)
※敬称略、委員50音順"
■担当記者が選ぶ注目の論点
日本政治 反省的に捉え直す
停滞する議会政治と繰り返される脱原発デモのなか、日本政治の現状を反省的に、捉え直す論考が目立った。
「中央公論」は「政治家は『塾』で育つのか」、「世界」は「だれのための政治なのか」の特集を組んだ。
片山善博と飯尾潤の対談「”まともな人”が政治家になれない理由」(中央公論9月号)では、政治家としての片山の経験をひきながら、政界の参入障壁の高さを指摘。政治家を育てない政党の現状や、議会審議の拙さが、具体的に語られた。
中野晃一「『政権交代』とは何だったのか、どう失敗したのか」(世界9月号)は、政治主導を掲げた民主党の政権交代劇の意味を分析。「民衆的基盤を欠いた」政権党の交代に止まったと指摘する。
開沼博「原発を挟んで広がる『南北格差』」(週刊金曜日7月27日号)は原発の北側と南側の格差を浮き彫りにする。原発を巡る議論がエネルギー問題に集中し始めるなか「福島で暮らしていこうとする人々にとって何より求められるのは『生活再建』に他ならない」と主張する。
新しい「昭和天皇像」を昨年著作で発表した論者同士が対談した伊藤之雄・古川隆久「昭和天皇の決断と責任」(司会・御厨貴、中央公論9月号)は激しい議論の応酬になった。昭和天皇の政治への関わり方の評価を巡り食い違うやりとりからは、政治体制としての「天皇制」の独特の力学を再確認させられる。
海外情勢で目をひいたのは、アラブの春の端緒チュニジアの現地ジャーナリスト、タレク・ムラドが書いた「チュニジア革命の逆説と希望」(外交7月号)。世界的に注目を集めた、若者たちによるジャスミン革命の後、イスラム主義政党が台頭。低所得層を中心に、イスラムの教えの影響が強まり始めているという。
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