2024年3月10日日曜日

大杉栄とその時代年表(65) 1892(明治25)年5月 田中正造、再び鉱毒事件質問状提出(第3議会) 漱石、東京専門学校(現・早稲田大学)講師 一葉「五月雨」完成 池辺三山(28)パリに向かう 子規「かけはしの記」(『日本』)    

 

池辺三山

大杉栄とその時代年表(64) 1892(明治25)年4月 漱石(25)、分家届提出、北海道に移籍 佐藤春夫生まれる 一葉(20)「たま襷」(『武蔵野』第2編) 一葉、療養中の桃水を見舞う より続く

1892(明治25)年

5月

川上音二郎一座公演「ダンナハイケナイワタシハテキズ」。

この月、金子堅太郎の案内で東京慈恵医大病院にて皇后を迎え「平野次郎」上演。

5月

北村透谷、評論「トルストイ伯」。

5月

杉浦重剛、「東京朝日」に客員として迎えられ社説を担当。

翌26年、同年の高橋健三(雑誌「日本人」のナショナリズム・グループの論客、先の内閣官報局長)が事実上の主筆として迎えられる。

杉浦重剛 ; 

東京帝大の前身の大学南校で法律を学ぶ。高橋健三と同年同学。英国留学後、東大予備門長、文部省参事官を勤める。三宅雪嶺・志賀重昂と共に「日本人」を創刊、政府主導の皮相な欧化主義に反駁。

志賀重昂 ;

札幌農学校で地理学を学ぶ。国土の美を再発見して「日本風景論」を纏める。明治17年、ニュージーランド、オーストラリア、サモアなどの南洋諸島を海軍練習艦で回り、欧米諸国の植民地支配の実情を見る。

5月

関東で天然痘大流行

5月

大審院長児島惟謙ほか同院判事29人連名、民法典実施の建議書提出。

5月

高野房太郎、卒業式出席のためサンフランシスコ戻り。

5月4日

この日付け子規の松山の後輩高浜清(虚子)宛て手紙。

ふたたび「僕近来精神悶々狂せんとするもの数々なり」と書く。同時に、「僕は小説家となるを欲せず詩人とならんことを欲す」との「志」を明らかする。のちに、これに自註して、「愚意を平たくいへば、即ち尤コンクリートにいへば、人間よりは花鳥風月がすき也、といふ位の事に有之候」と書く。

5月5日

一葉(20)一家、本郷区本郷菊坂町69番地(隣家)に転居。

5月6日

第3議会、開会。

田中正造、再び鉱毒事件質問状提出。第10議会(明治29年12月~30年3月)迄に35件の質問書提出。

議長には、東北派領袖河野広中が有力視(星亨より1歳年長だが政治的キャリアは長く、自由民権運動初期から東北の民権運動の第一人者、明治15年福島事件で入獄。この様な活動歴により自由党内の人望を集める)されるが、①民党の議席減少と②陸奥宗光の策謀により、星亨が議長就任。第2回総選挙後、以前の大成会に代る新たな吏党として中央交渉部が組織される。この中央交渉部は過半数には程遠いが95議席を有し、過半数割れした民党連合と拮抗しており、民党・吏党のいずれにも属さない無所属議員の去就が注目される。この中で、陸奥の意を受けた岡崎邦輔(陸奥の従弟)は、無所属議員31名を集め独立倶楽部を組織。陸奥は第2回総選挙後、松方内閣の農商務大臣を辞任していたが、藩閥・民党の中間的立場をとっている。政府は岡崎を通じて民党切り崩しを図るが、彼は31議席を確保したことで、議長選任のキャスチングポートを握る。岡崎は板垣ら自由党幹部に対し、陸奥に近い星を推薦するよう説得し、板垣らもこれを承諾せざるを得ず。このように星議長実現過程は、こののち対決から提携へと進む政府と民党の関係を暗示する。

冒頭、選挙干渉の責任を追及する内閣弾劾上奏案と決議案が上程。選挙干渉には、政府内部にも批判があり、責任者品川内相と不和な陸奥農商務相は抗議辞任。品川も激しい世論の攻撃で辞任。しかし、議会はそれだけでは収まらず、自由党院内総理河野は弾劾決議案を提出、賛成多数で可決。貴族院でも選挙干渉処分の建議案が可決。内閣は衆議院停会でこれに応じるが、内外からの批判で大きく動揺。

5月6日

漱石、東京専門学校(現・早稲田大学)の講師となる。大西祝(はじめ)の推薦。月5円ほど。~明治28年3月まで。大学院に在籍していた小屋保治は同じく美学担当の講師。


「学生に、綱島梁川や五十嵐カや藤野古白らがいる。(「この日初めて余等のクラスのビーカーの講師は文科大學の三年生といふなる夏目某といへる人なる由聞きぬ。多分この金曜より講義あるべしとの噂なり。」(「綱島梁川日記」) 「あの早稲田の學生であつて、子規や僕等の俳友の藤野古白は姿見橋〔後に面形橋〕 - 太田道灌の山吹の里の近所 - の邊の素人屋に居た。僕の馬場下の家とは近いものだから、折々やつてきて熱烈な識論をやつた。」(「僕の昔」〔談話〕)とあるのはこの時代以後と推定される。)」(荒正人、前掲書)

5月7日

大審院検事(嫌疑を受けた中で唯一の検事)磯部四郎、依願免官。法典断行派には痛手。

5月9日

一葉(20)、「五月雨」完成。7月23日発刊『武さし野』第3編に掲載。この頃、生活困難をきわめ、蝉表造りの内職に従事。桃水に頼って作家として生活を立てること絶望的となる。

『武蔵野』の売上は伸びず、桃水自らは肛囲炎を起こして活動ができないため、一葉の「五月雨」を含む数編の原稿を新聞『回天』の付録に載せて資金を得ようとするも、『回天』が休刊になり、目的を果たせなかった。

5月10日

室伏高信、湯河原に誕生。

5月11日

貴族院、選挙干渉に関して政府の反省を求める建議案を可決。14日、衆議院、選挙干渉問責決議案を可決。

5月12日

衆議院本会議。自由党立川雲平議員、選挙干渉資金が東宮御所建設予備金の利子(内閣機密費)から出ているのではないかと質問。大筋では真相に近い。

5月14日

法典断行派、神田錦町・錦輝館で大演説会。15日、江東中村楼で懇親会。

5月16日

貴族院。村田保、公爵二条基弘ら114名を賛成者として法典施行延期の法案提出。論戦は26日~3日間。2/3以上の圧倒的賛成で延期法案可決。衆議院では論戦1日で延期派勝利となる。

5月19日

ホー・チ・ミン、誕生。

5月20日

高野房太郎「金井博士及添田学士に呈す」(「国民新聞」)。

5月21日

この日付の一葉(20)「につ記」。

一葉が新聞社への小説の売込みを依頼していた田中みの子が、掲載見込みについて問い合わせて来るが、桃水への気兼ねもあり、中島歌子に相談する。

「我小説のこと田中君よりの物語りもあり、何とか答へなさずはわるかるべく、さりながら半井ぬしが種々懇とくなる言葉行為を思へば是を捨て彼につくなん義に於て不可なるべし。いか様にせんと斗に師君にも相談をなす」 (「につ記」明25・5・21)

5月21日

トスカニーニ、レオンカヴァレロ歌劇「道化師」初演。ミラノ。

5月22日

池辺三山(28)、パリ留学中の旧藩主世子の補導役のため、横浜港からフランス船シドニー号でパリに向かう。パリ滞在中鉄崑崙の筆名で新聞「日本」に「巴里通信」を寄せ、文名が上がる。28年11月、横浜に帰着。

大阪での「経世評論」後、帰京し陸羯南の新聞「日本」の客員寄稿家となり、不平等条約改正論を軸とする「日本外政論」を社説欄に連載。25年5月、旧藩主細川護久にパリ留学中の世子護成の補導役を依頼されて渡仏、28年6月帰国までパリのカルチェラタンの下宿を本拠としてヨーロッパの動静に耳目を働かせる。カルチェラタンのカフェには、「ルマタン」などパリの新聞、「タイムズ」などの英国の新聞、ローマの仏字新聞、アメリカの新聞などが置いてあり、それらを精読するのが三山の日課。滞仏2年で、仏字新聞が自由に読みこなせるようになった頃、「日本」に送稿始める。27年7月、細川護成の従者としてドイツ、北欧諸国、ロシア、中近東へ大旅行。パリに帰る前から、日清戦争に対するヨーロッパの反応を「巴里通信」として「日本」に送る。第1回は、「干渉将に来らんとす」(同年11月18日掲載)で新聞記事から分析した英仏の「東洋の戦い」への介入の動きを伝える。「巴里通信」は20数回に及び、「日本」は三山が普通郵便で送る1ヶ月遅れの通信を「社説」として掲載。東洋艦隊の根拠地を中国に求める英国、中国での鉄道敷設権を得たい仏独、米華銀行を創立したい米国、かつて英仏が同盟して中国を陥入れた時、仲裁役を引受けて黒竜江以北幾千里の地を得たロシアは、シベリア鉄道の工事が進むに従い、ウラジオストクへの大迂回を避けるため満州の地を得たくなるのは当然である、と三山は書く。

5月22日

一葉(20)、野々宮菊子から桃水の人物・性情などを聞き、交際を断ちたくなる。

この日付「につ記」。

「半井うしの性情人物などを聞に俄に交際をさへ断度なりぬ。さるものから今はた病ひにくるしみ給ふ折からといひ、いづくんぞよく斯ることいひもて行かるべき、快方を待てと心に思ふ」(「につ記」5月22日)。

5月23日

高野房太郎、弟・岩三郎の大学入学費用50ドル送金

5月25日

チトー、誕生。

5月27日

~6月4日、子規「かけはしの記」を「日本」に連載(6回)。ペンネームは螺子。前年夏の木曾旅行の記録。横川から軽井沢を経て松本に出て、奈良井から木曾川沿いに下り、馬籠へ出て美濃路に至る旅。

正岡子規「かけはしの記」(青空文庫)

5月31日

中嶋歌子の母が急性肺炎で重態となり一葉(20)は31日から泊まり、看病と家事に追われ28日より桃水を訪問していない。6月3日歌子の母が没す。


つづく



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