2024年3月18日月曜日

大杉栄とその時代年表(73) 1892(明治25)年8月26日~9月30日 漱石・子規、松山から東京に戻る 熊楠、ニューヨークからロンドンに移る 松原岩五郎、国民新聞社入社 一葉、「うもれ木」完成 規と漱石、逍遥を訪ねる 子規『早稲田文学』俳句欄担当   

 

松原岩五郎『最暗黒の東京』


1892(明治25)年

8月26日

漱石・子規、新海非風・大原尚恒と松山(三津浜港)を出発、神戸・大阪・京都・静岡を経て帰京。

27日、神戸着。29日、京都着。柊屋泊。30日、京都発、静岡着。31日、静岡発。午後3時50分(推定)、新橋着。

子規は神戸からは激しい下痢にとりつかれ、上根岸に帰ってからもなかなかとまらなかった。そして、下痢がとまると、ふたたび肺患が昂進して痰に血痕が混じりはじめた。

子規は病躯をおして中途退学の手続きに奔走したが、ついにカつきて床に臥したきりになった。常盤会の給費は9月分まで前借してあったので、医者にかかることもできず、子規は屈辱をこらえて叔父大原恒徳に無心の手紙を書いた。

8月26日

南方熊楠、ニューヨークに到着。8月22日、ジャクソンヴイルを出発していた。


「午後セントラルバルクに赴き、動物園及びアメリカン・ナチュラルヒストーリーミュージュームを観る。帰途再び園に入り巡査の為に咎めらる。衣服きたなき故なるべし。

此日所見、象、犀、河馬(かば)、象狗等、平生来始て熟視を得たる所とす。」(28日(日)の日記)


8月30日

母が渋谷との縁談を断って来たその夜の一葉の日記。

(現代語訳)「初めは父が渋谷に望を嘱し、聟にと考えていた。そして半ば事整ったと思っているうちに父が亡くなった。ある時母がそのことを言い出して、しっかりした返事を欲しいと迫った時、自分には異存はない、承諾すると答えた。しかし、仲人を立てて話を進めようとすると、利欲にまつわる条件を持ち出して来たので、母が立腹してそれを断ると、それならば破談にしましょうと言って来た。しかし相互の関係は変らず、細いながらも続いて来た。・・・」

「・・・我家やうやう運かたぶきて其昔のかげも止めず、借財山の如くにして、しかも得る処は我れ筆先の少しを持て、引まどの烟たてんとする境界。人にはあなづられ、世にかろしめられ、恥辱困難一ツに非ず。さるを今かの人は雲なき空にのぼる旭日の如く・・・身は新がたの検事として正八位に叙せられ、月俸五十円の栄職にあるあり。今この人に我依らんか、母君をはじめ妹も兄も、亡き親の名まで辱かしめず、家も美事に成立つべきながら、そは一時の栄、もとより富貴を願ふ身ならず。位階何事かあらん。母君に寧処を得せしめ妹に良配を与へて、我れはやしなふ人なければ路頭にも伏さん。・・・今にして此人に靡(ナビ)きしたがはん事をなさじとぞ思ふ。そは此人の憎くさならず。はた我れ我まんの意地にも非らず。世の中のあだなる富貴栄誉、うれはしく捨てゝ、小町の末我やりて見たく、此心またいつ替るべきにや知らねど、今日の心はかくぞある。・・・

(世間の徒花のような富貴や栄誉を嘆かわしく思いながら捨てて、小野小町のような末路を自分もしてみたいのだ。この心はいつまた変るかも知れないが、今の気持はこうなのだ)

松原岩五郎、国民新聞社入社。四谷鮫ヶ橋の貧民窟を取材(残飯屋人足に身をおいて)。

松原岩五郎:

幼くして両親を亡くす。明治21年22歳で文明開花のあり方を問う「文明疑問」を自費出版。内田魯庵・幸田露伴を知る。明治24年、魯庵を介して二葉亭四迷を知る。

明治25年の国民新聞入社、最初の下層社会報告「芝浦の朝烟」。明治26年四谷鮫ヶ橋・下谷万年町・芝新網町の東京三大貧民街を漂白し「最暗黒の東京」を書く。

9月

森鴎外(30)、慶応義塾大学の講師となり審美学を講しる。

9月1日

「日本」が発禁処分を受け、子規、古島一雄の求めで「君が代も二百十日は荒れにけり」と、即座に詠んで感心させる。

9月上旬

(または中旬)漱石、米山保三郎とヘーゲルや東洋の哲学に関して議論を重ねる。(大久保純一郎)

9月3日

一葉、身体の違和感を語る。

洗濯ものを少しして、

「此頃柔弱に馴れたる身の苦しさ堪がたきに、是よりはつとめて力わざせぼやなどかたる。」

(近頃、柔弱に馴れた身体の苦しみは、こらえ切れないほどで、これからは努めて力仕事もしたいものだなどと国子と話した。)

9月5日

渋沢秀雄、誕生。

9月9日

水原秋桜子、誕生。

9月14日

南方熊楠、6年間のアメリカ滞在を終え、ニューヨーク発。21日リバプール到着。ロンドンに入り横浜正金銀行ロンドン支店長中井芳楠(和歌山県人、南方家とは古くからの知り合い)を訪ねる。ここで父弥兵衛没を知る。ロンドンでは下町に住み、植物標本整理や、カルキンス、アレン等と植物標本・手紙の交換をする一方、大英博物館・南ケンシントン博物館・美術館に行く。諸国巡業の足芸人美津田滝次郎に出会い、その宅で片岡プリンスという東洋骨董商と知り合う。

9月15日

芥川龍之介(1)、母フクの精神障害のため母実兄芥川道章に養子(正式縁組みは明治37年8月5日、12)。養育は道章妹フキ(37)が文学・数の早期教育を行う。母フク(42)は明治35年11月28日没。

9月15日

田邊花圃の紹介で金港堂から作品を出すことになり、「うもれ木」が完成し、一葉はこの日に花圃に届ける。翌日には、次の作品の「たねさがし」に図書館に行く。

「都の花」は、金港堂が出す一流の文芸雑誌。明治21年の発行当初から、言文一致運動の提唱者山田美妙が主幹をつとめ発展させる。二葉亭四迷「浮雲」第3篇、幸田露伴「露団々」、尾崎紅葉「二人女房」が『都の花』に発表されている。

「うもれ木」は、世間に協調できない名人気質の陶画師を主人公に描いた作品で、兄虎之助をモデルにしている。幸田露伴の影響を思わせる客観的な作風で、これまでの戯作的色彩と王朝風雅文体から脱しているところに、一葉文学の進展がみられる。「都の花」に載ったため、星野天知、平田禿木、戸川秋骨などの目にとまり、女性には珍しい気骨のある作家として好評であった。

花圃を通じてではあるが「文学界」に執筆の機会を得るようになったのも、天知に「うもれ木」が認められていたからである。「文学界」は明治26年1月創刊。北村透谷や島崎藤村なども拠りどころとした、外国文学に通ずる若い文学者たちの出した文芸雑誌で、女流作家を育てようとの目的も持っていた。一葉は、「文学界」3号に「雪の日」を発表したのをはじめとして、「琴の音」「花ごもり」「やみ夜」「たけくらぺ」を同誌に発表。「やみ夜」の発表を契機に、同人の孤蝶・禿木・秋骨、上田敏ら、いわゆる青年浪漫派の人々との交流が日毎に繁くなっていく。

9月中旬 

この頃までに、漱石、「文壇に於ける平等主義の代表者『ウオルト、ポイツトマン』 Walt Whitman の詩について」を脱稿(大久保純一郎)

9月20日

・内海神奈川県知事と富田東京府知事、内務大臣に宛て夫々三多摩の東京府への移管を要請する上申書を提出。続いて10月13日、園田警視総監も移管上申を提出。内務省も移管問題への本格的な取り組みを開始、秘密裏に移管法案の策定が進められる。南多摩の自由党勢力放逐のために、移管問題を利用。

9月23日

5月に辞職してアメリカに去ったディクソンの後任としてオーガスタス・ウッド(ウード)着任(~明治29年7月31日)。ウードの後任がラフカディオ・ヘルン。

9月23日

一葉、野尻理作から「甲陽新報」に小説の寄稿をうながされる

9月26日

子規と漱石、坪内逍遥を訪れる。子規は『早稲田文学』の俳句欄を担当するようになる。


「登校。与漱石訪逍遥子於大久保」

「夕月に萩ある門を叩きけり」(子規『獺祭書屋日記』)


「・・・・・漱石と子規は、九月二十六日、二人はじめて、大久保余丁町に住む坪内逍遥のもとを訪れる。『日本』に連載された子規の「獺祭書屋俳話」に興味を持った逍遥が、ある人を介して子規に面談を求め、子規も楽しみに待っていたのだが、逍遥がなかなかやって来ないので、漱石に同道を求め、自ら逍遥のもとに向ったわけである。この会談の結果、『早稲田文学』に初めて俳壇が設けられ、子規は同誌の「俳句欄」を担当することになる。大学を中退した子規は漱石よりひと足(いや、ふた足?)先に文学の中心シーンに近づいて行く。(坪内祐三『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』(新潮文庫))


「東京専門学校に在学中の赤木格堂は次のように述べている。

Paris (パリ)の駐仏日本公使館に勤めていた叔父の加藤桓忠が内閣官報局長高橋健三(麹町区元衛町一番地第一号官舎)に貸した書籍を受取りに訪ねると、坪内逍遥が正岡子規に会いたがっているので高橋健三から紹介状を渡しておいたので、訪ねたら会って欲しいという。そこで正岡子規に伝えられ、首を長くして待っていた。だが、坪内逍遥は現れぬ。正岡子規は、夏目漱石に案内を頼み、自分のほうから坪内逍遥を訪ねる。この会談の結果、『早稲田文学』に、俳壇が設けられる。(赤木格堂「追懐余録」)正岡子規は、『早稲田文学』の「俳句欄」を担当する。」(荒正人、前掲書)

9月26日

南方熊楠、ロンドン着。


「ニューヨークを経由して、九月二十一日リヴァプール着。そして、九月二十六日、ついに熊楠はロンドンにその姿をあらわすことになる。この大都会ロンドンこそは、彼の運命を大きく変えることになる土地だったのである。今日、われわれが南方熊楠という人物の一生をその全体として顧みるならば、学者としての彼を育てたのも、最初の発表の機会を与えたのも、そして最大の挫折を味わわせたのも、すべて当時世界一の繁栄を誇っていたこの町であったと言うことができるであろう。ロンドン時代は、あきらかに南方の人生におけるハイライトなのだ。」(松尾竜五『南方熊楠 一切智の夢』)


「当時の南方熊楠の日記を目にすると、ロンドンに着いて最初の内けっこう怠惰な日々を送っていた熊楠が、本格的に学問に集中したすのは翌明治二十六年春ごろからだ。そのころから大英博物館に足繁く通うようになる。」(坪内祐三『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』(新潮文庫))


9月29日

小学校教育費国庫補助要求運動のための国立教育期成同盟会発足

9月30日

社説「再び対韓政略を諭す」(「郵便報知新聞」9月30、10月1日)、政府の対朝鮮政略を「極めて陋劣」と酷評。

欧州諸国の為に苦しめられた関税・条約を朝鮮に加え、遅れて朝鮮と条約を結んだ諸国にこれを倣わせ、「朝鮮国運進歩の一大妨害を与へた」。在朝鮮日本人も政府の挙動に倣ひ暴慢不蓬、日本人主人は使用する朝鮮人を人としてみない。また日本漁民は済州島の魚貝を尽し、全島の食糧を失わせる恐れがある。このため島民は哀号し、また憤恨の余り妨害するに至る。これで隣交を永遠に期することができようか。この社説は朝鮮に対する日本の強圧的態度が朝鮮をロシアにひきつけ、朝鮮が日清露「交鋒の防壁」でなくなったり、日本の貿易上の利益が清国によって奪われることを恐れているのであって、ハト派的政策論に立つ対朝鮮政策批判である。しかし、これは例外中の例外で、大半は侵略促進論理に転換。


つづく

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