2024年3月9日土曜日

大杉栄とその時代年表(64) 1892(明治25)年4月 漱石(25)、分家届提出、北海道に移籍 佐藤春夫生まれる 一葉(20)「たま襷」(『武蔵野』第2編) 一葉、療養中の桃水を見舞う      

 

川上音二郎

大杉栄とその時代年表(63) 1892(明治25)年3月 芥川龍之介・野坂参三生まれる 一葉「闇桜」(『武蔵野』第1編) 一葉「別れ霜」(『改進新聞』) 試験が近づいても勉強に身が入らない子規 より続く

1892(明治25)年

4月

新井章吾ら関東の立憲自由党代議士、関東倶楽部結成。

4月

一葉(20)の日記の目的についての記述。

「・・・かまへて人にみすべきものならねど、立かへり我むかしを思ふに、あやふくも又ものぐるはしきこといと多なる・・・」(「につ記)」

4月

川上音二郎、黒田清隆侯爵主催園遊会招待

4月

坪内逍遙「没理想の由来」(「早稲田文学」)

4月

相馬黒光(15、当時は星良子)、横浜のフェリス女学校に入学(試験期間3ヶ月のち本入学)、寄宿舎に住む。

4月

ニーチェ「ツァラトゥストラ」第4部刊行。

4月1日

堀合節子(後、啄木と結婚)、盛岡第一尋常小学校に入学。

4月2日

自由党関東選出議員により関東倶楽部設立決議、石阪昌孝・新井啓一郎の2人が幹事。

4月2日

司法官弄花事件。大審院検事今井艮一・近藤鎮三、検事総長不在のため司法大臣に面会し意見具申。

4月4日

池辺三山、パリ留学中の細川家世子護成の随伴者となる。5月22日、横浜発

4月5日

閣議、榎本武揚外相の「甲ノ断案」による交渉続行決定。

12日、伊藤・榎本・後藤・副島・黒田・寺島・井上毅を条約改正案調査委員に任命。

4月5日

漱石(25)、分家届を提出し、北海道後志国岩内郡吹上町17番地浅岡仁三郎方に移籍、北海道平民として一戸を創立。

大学生の徴兵猶予は26歳までと規定されていたので、期限切れを目前にした徴兵忌避と考えられる。

実際に送籍をおこなったのは父の小兵衛直克であったが、結果的に漱石が徴兵忌避者となり、その位置づけを受容していたことは、『吾輩は猫である』のなかで漱石を示唆する人物に「送籍」という字が当てられていることからもうかがわれる。


「本人自身が言うように(春陽堂編集者・本多嘯月の回想)、彼は北海道へは生涯行ったことがないし、そこに縁があるとすれば、札幌農学校へ転校した友人、橋本左五郎がいたぐらいのものである。通説では、明治二十二年の徴兵制改訂で、戸長および北海道に本籍がある者は徴兵免除、文部大臣認下の学校の学生は満二十八歳まで徴兵を猶予されるが、他の男子は国民皆兵制度の下におかれたためとされている。これに対しても江藤淳は、彼は満二十五歳だからまだ余裕はある。その真因は兄直矩の三度目の結婚であり、「登世への秘められた思慕」を抱く漱石は、「教育も身分もない人を自分の姉と呼ぶのは厭だ」という『道草』の健三同様に、今度の嫂と同じ戸籍に並ぶのを拒否したのだと推定している。だが死んだ嫂にこだわらなければ、そこにはまたもう一つの推定も可能である。彼が夏目本家に嫌気がさし、独立したいという希望を父に伝えた可能性である。身内と反りが合わず、孤独な彼は、戸籍の上でだけでも「個人」として生きたかったのではなかろうか。それもまったく未知の新天地、北海道においでである。それは彼が書類上で作り上げたはじめての自分の「家」なのである。彼は長くそこを本籍とし、大正三年六月になってようやく、やがて永眠する早稲田南町七番地に移籍した。彼は一貫して軍隊嫌いだったから、もちろん徴兵忌避の動機もあっただろう。なお本宅の戸長となった直矩は、父の死後(明治三十年六月)古い夏目家を売り払った。」(岩波新書『夏目漱石』)

4月5日

伊藤への慰留の宸翰公布の内幕暴露の怪文書。

4月9日

石阪昌孝ら神奈川県出身の代議士、司法・内務両大臣を訪問、忠生村の選挙事件につき談論。

4月9日

佐藤春夫、誕生。

4月15日

「米国二於ケル日本人」「米国二於ケル支那人問題」(「愛国」25号)。論調は条約改正まぐる対外硬論、ロシア脅威説、在外邦人の国権伸張問題などに移る。

4月中旬

法典延期派、「法典実施延期意見」発表。江木衷ら11名連名。国会議員全員、各新聞社に配布、大きな影響与える。断行派も、磯部四郎、梅謙次郎らの論文を雑誌に掲載。

4月16日

司法官弄花事件。児島惟謙、訪問した南部東京控訴院長に進退預けると告げる。同日、児島は司法省を訪問、花合わせの事実は認めるが金銭の遣り取りはないと言明。法廷で闘う意志表明。一方、大審院検事磯部四郎は賭博をしたと告白。児島の告白とは異なる。

4月17日

一葉(20)、『武蔵野』第2編に「たま襷」を発表。

樋口一葉「たま襷」(青空文庫)

4月20日

石阪昌孝、江東中村楼、関東会出席。組織強化のために関東会規則定める。

翌21日、関東会委員会、新肴町開花亭で開催。機関誌「新東洋」発行につき協議、大井・新井章吾・石阪昌孝ら7名を創立委員に選出。4月25日の自由党大会に代議士組織の変更を求める起草委員5名を選出。石阪昌孝、委員となる。

4月21日

大審院検事今井艮一・東京地裁検事尾立維孝、名を秘して辞職勧告書を大審院の主な裁判官に送る。

4月22日

東京地裁検事局検事正正野崎啓造、芸妓18名取調べ。

4月22日

スペインの音楽家ラロ(「スペイン交響曲」)、パリで没。

4月23日

一葉(20)、萩の合で同門の島田政子(島田三郎夫人)から悲話(彼女は家付き娘だが、書生との関係を理由に離縁された)を聞く。

後の「われから」は彼女をモデルにしているらしい。

4月25日

自由党大会開催。関東会提出の組織改革案、討議抜きで否決。以後、関東会の内部で紛糾。石阪昌孝・村野常右衛門ら神奈川の自由党は、新井章吾(自由党脱党)と対立、関東会を脱会し自由党組織へとどまる。6月28日、関東会の領袖大井憲太郎、自由党を脱党。(10年以上にわたる神奈川自由党と大井憲太郎の盟約関係は破産、神奈川自由党は大井派から星亨派への転身。代議士政党化へ。)

4月25日

漱石の兄、直矩、三度めの妻みよと結婚、入籍。(漱石には、相談しなかったと推定される)

4月26日

閣議、農商務相河野敏鎌が児島惟謙の勇退を説得とするが、児島拒否。

29日、閣議、田中不二麿法相が児島に勇退勧告にあたる。児島は(懲戒裁判で)闘う態度変えず。裁判官が行政官たる司法大臣他の風説を根拠とする辞職勧告に応じるべき理由なしと一蹴。

4月27日

沢田正二郎、誕生。

4月30日

ボアソナアド、榎本外相に意見書。内閣の法典断行論を強化するため。

4月末

一葉(20)は桃水の手術のことを知り、翌日早速に、下谷の会席料亭伊予紋から、口に合うようなものを買って届けたり本郷の和菓子店の老舗藤村から菓子を買って見舞ったりと、くに子の蝉表の内職を自分もしながら桃水へ心配りをする。


つづく


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