2024年3月17日日曜日

大杉栄とその時代年表(72) 1892(明治25)年8月10日~24日 漱石、岡山から松山に子規を訪ね、虚子・碧梧桐らに会う 一葉の桃水宛て手紙 一葉一家を裏切った渋谷三郎が一葉宅を訪問 一葉との結婚話は母がそれを断る    

 



1892(明治25)年

8月10日

漱石、岡山を離れ、松山に子規を訪ね、高浜虚子(清)、河東碧梧桐らに会う

虚子『漱石氏と私』は、当時松山中学の生徒だった虚子が見た漱石と子規の姿を回想している。


「私が漱石氏に就いての一番旧い記憶はその大学の帽子を被つてゐる姿である。時は明治二十四五年の頃で、場所は松山の中の川に沿うた古い家の一室である。それは或る年の春休みか夏休みかに子規居士が帰省してゐた時のことで、その席上には和服姿の居士と大学の制服の膝をキチンと折つて坐つた若い人と、居士の母堂と私とがあった。母堂の手によつて、松山鮓とよばれてゐるところの五目鮓が拵へられて其大学生と居士と私との三人はそれを食ひつゝあつた。他の二人の目から見たら其頃まだ中学生であつた私はほんの子供であつたらう。又十七八の私の目から見た二人の大学生は遥かに大人びた文学者としてながめられた。・・・その席上ではどんな話があつたか、全く私の記憶には残つて居らぬ。たゞ何事も放胆的であるやうに見えた子規居士と反対に、極めてつゝましやかに紳士的な態度をとつてゐた漱石氏の模様が昨日の出来事の如くはつきりと眼に残つてゐる。漱石氏は洋服の膝を正しく折つて静座して、松山鮓の皿を取上げて一粒もこぼさぬ様に行儀正しくそれを食べるのであった。さうして子規居士はと見ると、和服姿にあぐらをかいてぞんざいな様子で箸をとるのであった。・・・・・・」

「・・・・・其次ぎ居士〔子規〕を訪問してみると赤や緑や黄や青やの詩箋に二十句ばかりの俳句が記されてあつた。それを居士が私に見せて、『これが此間来た夏目の俳句ぢや。』と言ったことを覚えて居る。どんな句であつたか記憶しないが何でも一番最初に書いてあつた句が鶯の句であつたことだけは記憶して居る」


高浜虚子『漱石氏と私』(青空文庫)

8月10日

一葉から桃水宛て手紙

桃水から届けられた茶に対する礼と、「萩の舎」で桃水との仲を疑われ心ならずも交際を断った心情を吐露する。また、桃水は、この日(8月10日)一葉が遠ざかった真相を野々宮起久から聞かされ、その噂を否定し、それを口にする人物を知らせてほしいとの手紙を一葉に送っており、一葉の手紙はそれへの返信ともなっている。

「(略)

様子うかゞひながら御礼申度と存じ居候ひしかど憚る所なきにしもあらで心ならずも日を送り申候

今日しもめづらしき御玉章(たまずさ)久々にて御目もじせし心地うれしきにも又お恨みの御詞がうらめしく侯 

私し愚どんの身人様をしるなどゝ申すことかけても及ばねど師の君なり兄君なりと思ふお前様のこと誰人が何と申伝へ候とも夫を誠と聞道理もなくもとよりこしらへごとゝは存じ候故別して御耳にも入れざりしに候 

我さへしらぬ事をしるよの中聞かぬことを聞たりと申す位さしてあやしきことにもある間敷御捨おき遊ばし候とも消る時にはきえ候はんかし 

かく計らぬ事より御目通りの叶はぬ様に成しもやむを得ぬことゝ私しはあきらめ居(おり)今更人の口に戸も立ず只身一ッをつゝしみ申侯 

さりながら其源は何方にもあらずみな私しより起りしにて此一事のみにも非ずひまあれかし落しいれんのおとしあな設けられし身いかにのがれ候とも何の罪かきせられずにも居る間数と悲しき決心をきわめ居候 

唯々先日野々宮さまにおことづて願ひしとはりお前様御高恩のほどはみなみな身にしみて有難く日夜申暮し候もの共其親切仇(あだ)にして御名前をけがし候こと何よりも心ぐるしく愁らきはたゞ是のみに候 

申上度こといと多けれどさのみはとで御返し斗をなむ猶々願ひ参らするは何方へ御転住相成候とも何とぞ御住処御しらせ置たまはり度又折ふしは一片の御花託もと夫のみ苦中のたのしみに待渡りまゐらせ候

                                           かしこ

折しもあれ初秋かぜの立そめたるに虫の音の時しりがほなるなど月にもやみにも夜こそものはおもはれ侯へ 

露けき秋とはつねづね申ふるせし詞ながら袖の上におく今日此頃ぞ誠にしかとは思ひしられ侯 

何事を申合する人もなき様に覚えて世の中の心細さ限りなく私しこそ長かるまじき命かと存じられ候 

先頃より脳病にて自宅に帰り居候を又さる人々のあしざまに言ひなすとか

     とにも角にも誠うき世はいやに御坐侯

八月十日夜

御兄上様 御前                           なつ子」

桃水の8月3日付手紙には、「今晩野々宮様御出のふしいろいろ御懇ろの御言伝其の外お話承はり侯処」とあり、野々宮起久、8月3日夜、桃水宅で一葉のことを色々話したようだ。

そして、8月7日には起久が一葉のところに歌の稽古に来た。「半井君を訪給ひしよし。我事に付(つき)ての談話(ものがたり)ありしやに聞く」と一葉日記にある。


8月11日

吉川英治、久良岐郡中村根岸に誕生。

8月13日

原敬(36)、陸奥外相の要請により外務省通商局長(~28年5月22日外務次官、2年10ヶ月)。9月6日~26年11月9日取調局長兼務。10月「現行条約論」刊行。9月23日芝公園の住宅購入。

8月14日

イタリア勤労者党、ジェノヴァで結成。1882年結成の労働者党の労働者主義・経済主義的な性格を克服、労働者の統一的な社会主義政党を組織するため結成。党主流はトゥラーティら。アナーキズムを排し、日常的な組織活動の発展に社会主義の実現をみる路線を採択。’93年勤労者社会党,’95年社会党と改称、現在に至る。

8月15日

ドヴォルザーク、ニューヨーク、ナショナル音楽院院長就任のため妻・子供2人連れて出発。プラハ音楽院作曲家教授は2年間休職。

8月20日

検事総長松岡康毅・司法次官三好退蔵、依願退職。22日、司法次官清浦奎吾(山県直系)、検事総長春木義彰(広島控訴院検事長)、就任。

8月21日

野々宮起久が一葉を訪れ桃水の縁談のことを話しと写真を見せる。一葉は大きな衝撃を受ける。その後、野々宮起久は10月14日盛岡女学校に赴任し桃水の消息を伝える人がいなくなる。

8月22日

児島惟謙、大審院長辞任。24日、大審院部長名村泰蔵、部長兼任のまま大審院長心得となる。

検事側では、10月14日、高木秀臣東京控訴院長、依願免官。19日、今井良一大審院検事、依願免官。20日、加藤祖一大審院判事、依願免官。9月12日、東京地裁野崎啓造検事正、依願免官。判事側では、11月1日、中定勝大審院判事、依願免官。10月20日、加藤祖一大審院判事、依願免官。

8月22日

新潟三条区裁判所の検事に昇進した渋谷三郎が10月に行われる東京専門学校創立10周年式典の準備のため上京し、樋口一葉の本郷菊坂70番地の家を訪問。渋谷の父は、一葉の父義則の同郷の先輩。明治22年夏、義則は渋谷を一葉の結婚相手に頼み込むが、渋谷は義則没後の樋口家の没落を知り、去る。

渋谷三郎は一葉の5歳年上で、一葉の父の世話を受けて法律学校を卒業し、この頃(新潟三条区裁判所の検事)の月俸は50円であった。

三郎は、小説出版などの費用の立替え、春のや(道遥)なり、高田(早苗)なりへの紹介の労を取ろうなど言い、許嫁の縁の復活を仄めかす。そして数日後、知人山崎正助を通して、渋谷との結婚話が持ち上がるが、母たき子は直ぐにそれを断る。

「今この人に我依らんか、母君をはじめ妹も兄も亡き親の名まで辱めず。家も美事に成立つべきながら、そは一時の栄えもとより富貴を願う身ならず。位階何事かあらん」(「一葉日記」明治25年9月1日)。

この年、一葉、「うもれ木」「暁月夜」発表。稿料はそれぞれ12円弱。

8月24日

この日付け一葉の日記(日記への書き込み)。

「・・我はじめよりかの人に心ゆるしたることもなく、はた恋し床しなど思ひつることかけてもなかりき。さればこそあまたたびの対面に人けなき折々は、そのこととなく打かすめてものいひかけられしことも有しが、知らず顔につれなうのみもてなしつる也。さるを今しもかう無き名など、世にうたはれ初て処(トコロ)せく成ぬるなん、口惜しとも口惜しかるべきは常なれど、心はあやしき物なりかし。此頃降つづく雨の夕べなど、ふと有し閑居のさま、しどけなき打とけ姿など、そこともなくおもかげに浮びて、彼の時はかくいひけり、この時はかう成りけん。さりし雪の日の参会の時、手づから雑煮にて給はりしこと、母様のみやげにし給へとて干魚の瓶付送られしこと、我参る度々に嬉しげにもてなして、帰らんといへば、今しばししばし、君様と一夕の物語には積日の苦をも忘るるものを、今三十分、廿五分と時計打詠(ウチナガ)めながら引止められしこと、まして我が為にとて雑誌の創立に及ばれしことなど、いへば更也。・・・"

(私は最初からあの方に心を許したこともなく、また恋しいゆかしいなどと思ったことも全然ありませんでした。ですから、何度かお会いしているうちに、他に人がいない時には、はっきりとではなく娩曲に愛情の言葉をかけられたこともありましたが、知らぬ顔をして冷淡な態度をとったのです。それを今になって事実無根の噂をたてられ、肩身の狭い思いをしたのはくやしくてならないことです。然し、人の心とはまことに不思議なものですね。この頃降り続く雨の夜など、ふと、あの時の先生のお家の様子、先生のうちとけたお姿など、そこはかとなく思い出されて、あの時はこうおっしゃった、この時はこんなであったなどと偲ばれるのです。あの雪の日にお訪ねした時に先生ご自身で雑煮を炊いてもてなされたこと、母への土産にとて干魚の瓶漬けを下さったこと、また私がお訪ねするといつも嬉しそうにもてなして下さり、私が帰ろうとすると、

「もうしばらく、もうしばらく話したいのです。あなたとのしばしの物語には何日もの苦労もすっかり忘

れてしまう程ですから、あと三十分、いや、あと二十五分でも……」

と時計を見ながらお引きとめなきったこと、まして私のためにと言って雑誌の発行までして下さったことなど、今更いうまでもないことでした。)

・・・(さるものかは)かく成行しも誰故かは、その源はかの人故ぞかし。かの人みづから形もなき事まざまざしういひふらしたればこそ、わりなう友などの耳にも伝ひしなれ。友に信義の人しなければ、やがて真そらごと師の君に訴へにけん。されども猶師の君まこと我れを見る眼おはせば、かうはかなき邪説などにやみやみと迷はされ給ふべきにはあらじを、などさまざまに思ふほど憎くからぬ人もなく成ぬ。いでや罪は世の人ならず。我李下の冠のいましめを思はず、瓜田に沓をいれたればこそ、いつしか人の目にもとまりて、いひとき難き仕義(シギ)にも成たれ。・・・

(しかしこんな結果になったのは一体誰のせいでしょうか。その原因はあの人が自分で根も集もないことをまるで本当の事のようにあちこちでお話になったからこそ、それが私の友人たちの耳に入ってしまったからでした。友達といっても信義のある人ばかりとは限りませんので、そのうちに本当のことも嘘のことも区別なく中島先生に告げ口したのでしょう。然し中島先生がもし本当の私を見る眼を持っておられたのならば、こんなつまらない嘘偽りにやすやすと迷わされなさることは決してなかっただろうになどと思いますと、誰も誰も憎くない人は一人もいないのです。然しながらまた考えてみますに、私がこのような罪を得たのも世間の人からではなく、私が「李下の冠」の戒めを考えず「瓜田に沓」を踏み入れたからこそ、いつの間にか世間の人の目にもふれ、弁解の余地もない次第になってしまったのでしょう)

・・・必竟は我かの人を思ふにも非ず、恋ふにも非らず、大方結ひ初たる友がきの中、終始かはらざらんが願はしさにこそ、かくさまざまの物おもひもするべけれど、猶かくいふも我迷ひに入らんとする入口にやあらん。今こそ人も我もにごりたる心なく、行ひなく、天地に恥ぢずして交りもなさめ。やうやう入立てむつれよるままに、いかに我心、人の心替り行かんか計り難し・・・

(結局は、私はあの方をいとしく思ったり恋い慕ったりするのではなく、およそ交際を始めて以来、最後まで変らない交際をこそ願っているので、このようにあれこれと物思いをするのです。しかしこんなことを言うこと自体が迷い始める初まりなのでしょうか。だから今こそはあの人も私もやましい心もなく、やましい行いもせず、天地神明に恥じずに交際をしたいものです。次第に親しくむつまじく交際するにつれて、お互いにどんなに心が変わって行くかはわからないことです)

・・・ある時は厭ひ、ある時はしたひ、よ所(ソ)ながらもの語りききて胸とどろかし、まのわたり文を見て涙にむせび、心緒(シンショ)みだれ尽して、迷夢いよいよ闇(クラ)かりしこと四十日にあまりぬ。七月の十二日に別れてより此かた、一日も思ひ出さぬことなく、忘るるひま一時も非ざりし。今はた思へば、是ぞ人生にからなず一たびは来るべき通り魔といふものの類ひ成けん。道にかんがみ良心に間へば、更に更に心やましきことなく、思ひわづらふふし更になし。我徳この人の為にくもらんとして却りてみがかれぬ。いでやこれよりいよいよみがきて、猶一大迷夢見破りてましと思ひ立しは、八月の廿四日、渋谷君に訪はれし翌日成けり。・・・

(ある時は不愉快でいやなことに思ったり、ある時は慕わしく恋しく思ったり、また人づてに噂をお聞きして胸をとどろかしたり、直接お手紙をいただいては涙にむせんだりして、心はただもう乱れに乱れて迷いの夢の闇の中を歩き続けて早くも四十日が過ぎました。七月十二日にお別れして以来、一日として思い出さない日はなく、一ときとして忘れるひまもありませせんでした。今にして思えば、あの人とのことは人生において必ず一度はやって来るという通り魔のようなものでしたでしょうか。道徳的に見ても、また私の良心に照らして見ても、心には一点のやましいこともなく、思い悩むことも全くないのです。私の人格は、この人のために汚されようとしてかえって磨かれたのでした。これからは一層徳操を磨いて、人生の一大迷夢を打ち破りたいと思い立ったのは八月の二十四日のことで、渋谷三郎さんの来訪を受けた翌日のことでした。)

一葉は、渋谷との結婚話の再燃から、桃水との結婚の可能性を検討してみたと思われる。

つづく

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