1902(明治35)年
8月16日
この日の子規『草花帖』、「八月十六日 天竺牡丹」
8月16日
この日掲載の子規「病牀六尺」.(九十六)
「○子供の時幽霊を恐ろしい者であるやうに教へると、年とつてもなほ幽霊を恐ろしいと思ふ感じがやまぬ。子供の時毛虫を恐ろしい者であるやうに教へると、年とつて後もなほ毛虫を恐ろしい者のやうに思ふ。余が幼き時婆々様(ばばさま)がいたく蟇(ひき)を可愛がられて、毎晩夕飯がすんで座敷の縁側へ煙草盆を据(す)ゑて煙草を吹かしながら涼んで居られると手水鉢(ちょうずばち)の下に茂つて居る一ツ葉の水に濡れて居る下からのそのそと蟇が這(は)ひ出して来る。それがだんだん近づいて来て、其処に落してやつた煙草の吹殻(すいがら)を食ふてまたあちらの躑躅(つつじ)の後ろの方へ隠れてしまふ。それを婆々様が甚だ喜ばれるのを始終傍に居つて見て居たために、今でも蟇に対すると床(ゆか)しい感じが起るので、世の中には蟇を嫌ふ人が多いのをかへつて怪しんで居る。読書する事、労働する事、昼寐する事、酒を飲む事、何でも子供の時に親しく見聞きした事は自ら習慣となるやうである。家庭教育の大事なる所以ゆえんである。
(八月十六日)」
8月17日
この日の子規『草花帖』、「八月十七日午後 ロベリア Lobelia (山梗葉科ササギキヤウ科)」
8月18日
この日の子規『草花帖』、「八月十七日朝 庭前ノ土クレヲ取リ写生ス」
8月19日
この日掲載の子規「病牀六尺」(九十九)
「○おくられものくさぐさ
一、史料大観(台記、槐記、扶桑名画伝(ふそうめいがでん))
(略)
一、やまべ(川魚)やまと芋は節(たかし)より
(略)
一、やまめ(川魚)三尾は甲州の一五坊より
(略)
一、仮面二つ某より
(略)
一、草花の盆栽一つはふもとより
(略)
(八月十九日)」
8月20日
川上音二郎一行、帰国。1年4ヶ月ぶり。
8月20日
子規、この日陸羯南の小さな娘たちが持ってきてくれた朝顔の鉢を「草花帖」に写生。
この日の子規『草花帖』、「八月二十日午後 牽牛花 アサガホ」
この日、若い俳人、鈴木芒生と伊東牛歩が『南岳草花画巻』を持参。子規はこれが大いに気に入った。"
8月20日
この日掲載の子規「病牀六尺」(百)
「○「病牀六尺」が百に満ちた。一日に一つとすれば百日過ぎたわけで、百日の日月は極めて短いものに相違ないが、それが余にとつては十年も過ぎたやうな感じがするのである。ほかの人にはないことであらうが、余のする事はこの頃では少し時間を要するものを思ひつくと、これがいつまでつづくであらうかといふ事が初めから気になる。些細な話であるが、「病牀六尺」を書いて、それを新聞社へ毎日送るのに状袋(じょうぶくろ)に入れて送るその状袋の上書(うわがき)をかくのが面倒なので、新聞社に頼んで状袋に活字で刷つてもらふた。そのこれを頼む時でさへ病人としては余り先きの長い事をやるといふて笑はれはすまいかと窃(ひそか)に心配して居つた位であるのに、社の方では何と思ふたか、百枚注文した状袋を三百枚刷つてくれた。三百枚といふ大数には驚いた。毎日一枚宛書くとして十カ月分の状袋である。十カ月先きのことはどうなるか甚だ覚束(おぼつか)ないものであるのにと窃(ひそ)かに心配して居つた。それが思ひのほか五、六月頃よりは容体もよくなつて、遂(つい)に百枚の状袋を費したといふ事は余にとつてはむしろ意外のことで、この百日といふ長い月日を経過した嬉しさは人にはわからんことであらう。しかしあとにまだ二百枚の状袋がある。二百枚は二百日である。二百日は半年以上である。半年以上もすれば梅の花が咲いて来る。果して病人の眼中に梅の花が咲くであらうか。
(八月二十日)」
8月21日
英、世界最大の旅客船セドリック号、ベルファストで進水。9層デッキ。乗船可能人数は乗客約3千・乗組員約350。
8月22日
この日の子規『玩具帖』、「紙人形」を描く。絵の横に「紙人形鉄崑崙寄贈」とある。これは池辺三山から送られたもの。
子規は、8月22日に「紙人形」、23日から27日にかけて「酉ノ市ノ於多福」、9月2日に「魚釣り玩具」、その後に未完の絵の4枚があり、これらを子規没後、正岡忠三郎が1冊の折本に仕立て「玩具帖」と称した。
8月22日
独、女優・写真家・監督リーフェンシュタル、誕生。
8月23日
米、アメリカ・パイソン(野牛)保護育成政策開始。
8月25日
ハリー・ド・ビント、パリ-ニューヨーク間をシベリアを経由して248日で踏破。
8月27日
埼玉県に虐待工女救済会設立。
8月27日
午後、帰国した浅井忠が子規庵を訪問。2年半ぶりの面会、子規は漱石の近況やパリの話を聴いたと推測される。
子規はこの日、「玩具帖」に23日にとりかかった酉の市のお多福の絵を完成させた。
(絵には「昨年末、鳴雪翁の贈らるるところ、今は半ば崩壊せられおるもの。八月廿三日と廿七日の二日にかけて写す。廿七日午後、黙語氏欧州より帰りて始めて訪れる」と添えられている)
「八月二十七日(水)、「廿七日午後黙語〔浅井忠〕氏欧州ヨリ帰リテ始メテ訪ハル」(正岡子規「玩具帖」。この時、浅井忠は漱石について語ったものと想像される。」(荒正人、前掲書)
8月28日
日本・フランス・ドイツ・イギリス、条約及び其他協約中の趣旨並びに異議に関する紛争を、仲裁裁判所に付する議定書(家屋税問題仲裁裁判に関する議定書)調印。
8月29日
日英独など7ヵ国、清国政府と輸入税率改定協定に調印。10月4日告示。31日実施。
8月31日
この日の子規『病牀六尺』(百十一)。
「○余が所望(しょもう)したる南岳(なんがく)の艸花画巻(そうかえまき)は今は余の物となつて、枕元に置かれて居る。朝に夕に、日に幾度となくあけては、見るのが何よりの楽しみで、ために命の延びるやうな心地がする。その筆つきの軽妙にして自在なる事は、殆ほとんど古今独歩(ここんどっぽ)といふてもよからう。これが人物画であつたならば、如何によく出来て居つても、余は所望もしなかつたらう、また朝夕あけて見る事もないであらう。それが余の命の次に置いて居る草花の画であつたために、一見して惚れてしまふたのである。とにかく、この大事な画巻を特に余のために割愛せられたる澄道和尚の好意を謝するのである。
(八月三十一日)」
「子規は、応挙の高弟だった渡辺南岳の「四季草花図巻」を、「渡辺さんのお嬢さん」と呼んでほれ込み、現東京都江戸川区の、通称平井聖天、燈明寺の二十六代住職、関澄道を通じて所有者に譲ってくれるよう懇願した。一旦は断られたものの、子規没後に返却することを条件に澄道らが借り受け、子親には快く譲渡されたと告げられたもので、現在東京蛮術大学の所蔵となっている。
そういう事情を知らない子規は、この画を明け暮れ眺めて命が延びる思いがすると、澄道に感謝を述べているが、注目されるのは、「筆付きの軽妙にして自在なる」点が子規の執心の理由だったことである。この絵は、ちょうどこの頃子規が描いていた『草花帖』に酷似している。短い子規の生涯の最後の墳地が、軽妙な写生にあったことを如実に語るエピソードではないかと思う。」(井上泰至『ミネルヴァ評伝選正岡子規』)
つづく
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