1902(明治35)年
9月1日
江ノ島電鉄の藤沢−片瀬(現江ノ島)間、開通。
9月1日
名古屋手形交換所開業。
9月1日
この日の子規『病牀六尺』(百十二)。
「○いよいよ暑い天気になつて来たので、この頃は新聞も読む事出来ず、話もする事出来ず、頭の中がマルデ空虚になつたやうな心持で、眼をあけて居る事さへ出来難くなつた。去年の今頃はフランクリンの自叙伝を日課のやうに読んだ。横文字の小さい字は殊(こと)に読みなれんので三枚読んではやめ、五枚読んではやめ、苦しみながら読んだのであるが、得た所の愉快は非常に大なるものであつた。費府(フィラデルフィア)の建設者とも言ふべきフランクリンが、その地方のために経営して行く事と、かつ極めて貧乏なる植字職工のフランクリンが一身を経営して行く事と、それが逆流と失敗との中に立ちながら、着々(ちゃくちゃく)として成功して行く所は、何とも言はれぬ面白さであつた。この書物は有名な書物であるから、日本にもこれを読んだ人は多いであらうが、余の如く深く感じた人は恐らくほかにあるまいと思ふ。去年はこの日課を読んでしまふと、夕顔の白い花に風が戦(そよ)いで初めて人心地がつくのであつたが、今年は夕顔の花がないので暑くるしくて仕方がない。
(九月一日)」
9月2日
東京専門学校、早稲田大学と改称。
10月19日 早稲田大学開設と創立30周年記念式典
9月2日
この日、子規は魚釣りの玩具を描き、「二百十日曇」と添える。(『玩具帖』3)
9月3日
クロアチア首都ザグレブ、クロアチア人住民とセルビア人住民が衝突。死傷者多数。戒厳令発令。
9月5日
英清通商航海条約(マッケイ条約・通商行船条約)調印。厘金撤廃と関税付加税を約束し、清国の内政改革がきめられる。しかしほとんど成果無し。
9月5日
大日本錦糸紡績同業連合会臨時総会で、不況対策として錦糸布輸出奨励金の設定を議決。
9月5日
この日の子規『病牀六尺』(百十六)。
「○暑き苦しき気のふさぎたる一日もやうやく暮れて、隣の普請(ふしん)にかしましき大工左官の声もいつしかに聞えず、茄子(なす)の漬物に舌を打ち鳴らしたる夕餉(ゆうげ)の膳おしやりあへぬほどに、向島(むこうじま)より一鉢の草花持ち来ぬ。緑の広葉うち並びし間より七、八寸もあるべき真白の花ふとらかに咲き出でて物いはまほしうゆらめきたる涼しさいはんかたなし。蔓(つる)に紙ぎれを結びて夜会草と書いつけしは口をしき花の名なめりと見るにその傍に細き字して一名夕顔とぞしるしける。彼方(かなた)の床の間の鴨居(かもい)には天津(てんしん)の肋骨(ろっこつ)が万年傘に代へてところの紳董(しんとう)どもより贈られたりといふ樺色(かばいろ)の旗二流おくり来しを掛け垂(たら)したる、そのもとにくだりの鉢植置き直してながむればまた異なる花の趣なり。この帛(はく)にこの花ぬひたらばと思はる。
くれなゐの、旗うごかして、夕風の、吹き入るなへに、白きもの、ゆらゆらゆらぐ、立つは誰、ゆらぐは何ぞ、かぐはしみ、人か花かも、花の夕顔
(九月五日)」
9月7日
子規編、碧梧桐・虚子共編『春夏秋冬』秋之部を俳書堂より刊行。漱石の俳句34句を収録。
9月8日
石川県能美郡串村に石川種馬所設置。
9月8日
長与專斎(65)、没。
9月8日
この日の子規『病牀六尺』(百十九)。
「○近頃は少しも滋養分の取れぬので、体の弱つたためか、見るもの聞くもの悉(ことごと)く癪(しゃく)にさはるので政治といはず実業といはず新聞雑誌に見るほどの事皆我をじらすの種である。(略)
(九月八日)」
9月9日
土井晩翠、ロンドンで漱石と同宿する。
「九月九日(火)、土井林吉(晩翠)(ロンドンの北方 Tufnel Park (タフネル・パーク)に下宿していた)同宿する。
九月十一日(木)頃までの間(八月中旬から)、前年ベルリンに留学していた滝廉太郎は、結核となり、帰国途中 Tilbury Dock (ティルベリー・ドック)に、寄港したので、姉崎正治(嘲風)と土井晩翠は船中に見舞に行く。」(荒正人、前掲書)
9月10日
永井荷風(23)、懸賞に応募して選外になっていた『地獄の花』(金港堂)を刊行、75円を得る。ゾライズムの作風を深める。森鴎外に絶賛され、彼の出世作となる。
この年(明治35年)4月の『野心』、6月の『闇の叫び』、9月の『地獄の花』、10月の『新任知事』、翌36年5月の『夢の女』、7月の翻案『恋と刃』、9月の『女優ナゝ』などがゾラの影響下に書かれた系列の作品。
昭和9年の散策記『元八まん』に、三十幾年のむかし、洲崎の遊里に留連したころ、後年の東陽公園のあたりまで歩いたことを記した一節がある。
『地獄の花』で得た稿料75円(白米1升が15銭弱の時代の75円)で洲崎の遊里に留連し、その経験・見聞により『夢の女』の主要部分が書き下ろされ、翌36年5月に新声社(のちの新潮社)から出版されたと推測できる。
9月10日
この日の子規『病牀六尺』(百二十一)。
「○碁(ご)の手将棋(しょうぎ)の手といふものに汚ないと汚なくないとの別がある。それがまたその人の性質の汚ないのと汚なくないのと必ずしも一致して居ないから不思議だ。平生(へいぜい)は誠に温順で君子と言はれるやうな人が、碁将棋となるとイヤに人をいぢめるやうな汚ない手をやつて喜んで居る。さうかと思ふと、平生は泥棒でも詐欺(さぎ)でもしさうな奴が、碁将棋盤に向くとまるで人が変つてしまふて、君子かと思ふやうな事をやる。少しも汚ない手をしないのみならず、誠に正々堂々と立派な打方をするのがある。このほかによくその人の性質を現はしたやうな碁打ち将棋さしも固(もと)より沢山ある。これには種々な原因があつて、もし心理的に解剖して見たらばよほど面白い結果を現はすであらうと思ふが、その中の一原因をいふと、碁将棋の道に浅いものは如何なる人によらず汚ない手を打つのが多くて、段々道に深く入つて、正式に碁将棋を学んだものには、その人の如何にかかはらず余り汚ない手は打たないのである。
(九月十日)」
9月11日
この日の子規『病牀六尺』(百二十二)。
「○一日のうちに我痩足(やせあし)の先俄(にわ)かに腫(は)れ上りてブクブクとふくらみたるそのさま火箸(ひばし)のさきに徳利をつけたるが如し。医者に問へば病人にはありがちの現象にて血の通ひの悪きなりといふ。とにかくに心持よきものには非ず。
四方太(しほうだ)は『八笑人(はっしょうじん)』の愛読者なりといふ。大(おおい)にわが心を得たり。恋愛小説のみ持囃(もてはや)さるる中に鯉丈(りじょう)崇拝とは珍し。
四方太品川に船して一網にマルタ十二尾を獲(え)、しかも網を外(はず)れて船に飛び込みたるマルタのみも三尾あり、総てにて一人の分前(わけまえ)四十尾に及びたりといふ。非常の大漁なり。昨また隅田の下流に釣して沙魚(はぜ)五十尾を獲(え)、同伴のもの皆十尾前後を釣り得たるのみと。その言にいふ、釣は敏捷(びんしょう)なる針を択ぶことと餌を惜しまぬこととにありと。
左千夫いふ。性(しょう)の悪き牛、乳を搾(しぼ)らるる時人を蹴(け)ることあり。人これを怒つて大に鞭撻(べんたつ)を加へたる上、足を縛(しば)り付け、無理に乳を搾らむとすれば、その牛、乳を出さぬものなり。人間も性悪しとてむやみに鞭撻を加へて教育すればますますその性を害(そこの)ふて悪くするに相違なしと思ふ。云々(うんぬん)。
節(たかし)いふ。かづらはふ雑木林を開いて濃き紫の葡萄圃(ぶどうほ)となさむか。
(九月十一日)」
「九月はじめ、子規の足の甲が腫れていることに気づいたのは律であった。しかし本人には感覚がない。それが水腫なら終焉は近い。律は子規には知らせずにいた。
しかし九月八日の夜から足の腫れは一気にすすんだ。九月九日に医者に見せたが、血液の循環障害だといわれた。治療の手だてはない。われとわが脚を眺めた子規は、「甚だ不気味なものじゃな」とつぶやいた。
(略)
子規門のおもだった面々が、毎日看病当番にあたることにかわりはなかったが、泊りは夏のあいだやめていた。今度こそ宿直を復活せざるを得ない段階だと衆目は一致した。」(関川夏央、前掲書)
つづく
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