2025年3月8日土曜日

大杉栄とその時代年表(428) 1902(明治35)年12月1日~5日 「倫敦に住み暮らしたる二年は尤も不愉快の二年なり。・・・・・英国人は余を目して神経衰弱と云へり。ある日本人は書を本国に致して余を狂気なりと云へる由。・・・・・帰朝後の余も依然として神経衰弱にして兼狂人のよしなり。・・・・・」(『漱石文学論』序)   

 


大杉栄とその時代年表(427) 1902(明治35)年11月2日~31日 石川啄木(16)、渋谷の新詩社に与謝野鉄幹・晶子を訪問。以後夫妻の知遇を得る。鉄幹は後年この日の啄木について、「初対面の印象は率直で快活で、上品で、敏慧で、明るい所のある気質と共に、豊麗な額、莞爾として光る優しい眼、少し気を負うて揚げた左の肩、全体に颯爽とした風采の少年であった。」と語る。 より続く

1902(明治35)年

12月

三井物産(名)、上海紡織有限公司設立。初の在華紡。

12月

与謝野鉄幹、歌集「埋木」刊行。

12月

堺利彦、『家庭の新風味』シリーズが好評だったため、『家庭夜話』3巻シリーズを内外出版協会から刊行。

第一冊は『子孫繁昌の話』(12月)、第二冊は『質素倹約の話』(訳者は加藤眠柳、1903年1月)、第三冊は『仁慈博愛の話』(同年3月)。

第一冊『子孫繁昌の話』は、堺がエミ-ル・ゾラの『多産』(フランス語原題はFecondite)を英訳本から日本語に抄訳したもので、人物の名前は日本名に置き換えている。この『多産』に登場する娘の一人がマーガレットで、堺はこれに「真柄」という漢字をあてた。堺はこの名前を、翌年に生まれた自分の愛娘につけたのだった。真柄の『わたしの回想(上)』には、近所の男の子に「オーイ、まぐろ!」と追いかけられたことが記され、「まがらなんておかしな名は魚と一緒にされる」とある。しかし、堺はこの風変わりな名前がかなり気に入っていたらしい。

第二冊の『質素倹約の話』は、イギリスの作家オリバー・ゴールドスミス著『ウェイクフィールドの牧師』の抄訳。種々の事情で時間がなくなり、やむなくこの頃『東京朝日新聞』などにも小説を書いていた加藤眠柳にあらすじを訳してもらった。

第三冊の『仁慈博愛の話』の原作は、ハリエット・ピーチャー・ストー夫人の『アンクルトムの小屋』。これも翻訳する時間がとれず、志津野又郎に訳させたものを編集した。志津野又郎は堺の母方の親戚だが、東京で学ぶ目的で上京して堺家に同居していた。

12月1日

東京、平野哲五郎、ヒラノ荷札を製造販売。紙製荷札の最初。

12月1日

ロシア・オーストリア、マケドニアの改革の共同管理で合意。

12月1日

ロンドンの漱石


「漱石は、十二月一日付高浜虚子宛の手紙に書いた。


小生出発の当時より、生きて面会致す事は到底叶ひ申間敷と存候。是は双方とも同じ様な心持にて別れ候事故今更驚きは不致、只々気の毒と申より外なく候。但し、かかる病苦になやみ候よりも早く往生致す方、或は本人の幸福かと存候。


(略)

「同人生前の事につき何か書けとの仰せ、承知は致し候へども」と漱石がつづけたのは、碧梧桐と連名の手紙を追ってすぐ、虚子からの執筆依頼が届いていたからであろう。


文章などかき候ても、日本語でかけば西洋語が無茶苦茶に出て参候。又西洋語にて認め候へばくるしくなりて日本語にし度なり、何とも始末におへぬ代物と相成候。


だから当面は勘弁してくれというのである。

漱石が帰国の途についたのはこの四日後、十二月五日であった。ロンドンのアルバート埠頭から博多丸に乗った。・・・・・」(関川夏央、前掲書)

"

「漱石は十二月五日にロンドンを発つことにしていたので、部屋は梱包した荷物が置かれているだけで、がらんとしていた。傍にストーヴはあったが、底冷えの激しい部屋で漱石は子規の臨終や葬式の模様を伝える二通の手紙を読んだ。窓の外にはロンドン特有の濃い霧が流れ、友の死を悼むのにふさわしかった。漱石は明日、虚子へ返事を書こうと思い、五句ほどの悼句も用意した。


啓 子規病状は毎度御恵送のほとゝきずにて承知致候処、終焉の模様逐-御報被下奉謝(くださりしやしたてまつり)候。小生出発の当時より生きて面会致す事は到底叶ひ申間敷と存候。是は双方とも同じ様な心持にて別れ候事故今更驚きは不致、只々気の毒と申より外なく候。但しかゝる病苦になやみ候よりも早く往生致す方或は本人の幸福かと存候。倫敦通信の儀は子規存生中慰藉かたがたかき送り候筆のすさび、取るに足らぬ冗言と御覧被下度、其後も何かかき送り度とは存候ひしかど、御存じの通りの無精ものにて其上時間がないとか勉強をせねばならぬ抔と生意気な事ばかり申し、ついつい御無沙汰をして居る中に故人は白玉楼中の人と化し去り候様の次第、誠に大兄等に対しても申し訳なく、亡友に対しても慚愧の至に候。

同人生前の事につき何か書けとの仰せ承知は致し候へども、何をかきてよきや一向わからず、漠然として取り纏めつかぬに閉口致候。

さて小生来五日いよいよ倫敦発にて帰国の途に上り候へば、着の上久々にて拝顔、種々御物語可仕万事はその節まで御預りと願ひたく、この手紙は米国を経て小生よりも四、五日さきに到着致す事と存候。子規追悼の句何かと案じ煩ひ候へども、かく筒袖姿にてビステキのみ食ひ居候者には容易に俳想なるもの出来仕らず、昨夜ストーヴの傍にて左の駄句を得申候。得たると申すよりは寧ろ無理やりに得さしめたる次第に候へば、只申訳の為め御笑草として御覧に入候。近頃の如く半ば西洋人にて半日本人にては甚だ妙ちきりんなものに候。

文章などかき候ても日本語でかけば西洋語が無茶苦茶に出て参候。また西洋語にて認め候へばくるしくなりて日本語にしたくなり、何とも始末におへぬ代物と相成候。日本に帰り候へは随分の高襟(ハイカラ)党に有之べく、胸に花を挿して自転車へ乗りて御目にかける位は何でもなく候。


 倫敦にて子規の訃を聞きて

筒袖や秋の柩にしたがはず

手向くべき線香もなくて暮の秋

霧黄なる市に動くや影法師

きりぎりすの昔を忍び帰るべし

招かざる薄に帰り来る人ぞ

皆蕪雑、句をなさず。叱正。(十二月一日、倫敦、漱石拝)


悼句の中の《筒袖》は洋服姿の自分を自嘲したもので、ロンドンに居て子規の葬列に加われなかった漱石の無念さがにじみ出ている。また《霧黄なる市》は霧の町ロンドンのこと。その霧の中をゆらゆら動いている《影法師》は、子規の幻影だったにちがいない。」(『子規断章』)


12月3日

伊藤博文政友会総裁、大隈重信憲政党総理と会談。両党の提携関係の強化明確化。

翌4日両党大会を開催、海軍拡張の財源を政費節約によって充て、地租増徴継続には反対することを決議。

12月5日

漱石、日本郵船「博多丸」にてロンドンを発ち帰国の途につく。斎藤茂吉の養父、斎藤紀一など、ドイツ留学から帰る医師が数名同船していた。


倫敦に住み暮らしたる二年は尤も不愉快の二年なり。余は英国紳士の間にあつて狼群に伍する一匹のむく犬の如く、あはれなる生活を営みたり。倫敦の人口は五百万と聞く。五百万粒の油のなかに、一滴の水となつて辛うじて露命を繋げるは余が当時の状態なりといぶ事を断言して憚からず。清らかに洗ひ濯(すす)げる白シヤツに一点の墨汁を落したる時、持主は定めて心よからざらん。墨汁に比すべき余が乞食の如き有様にてヱストミシスターあたりを徘徊して、人工的に煤烟の雲を漲(みなぎ)らしつゝある此大都会の空気の何千立方尺かを二年間に吐呑(とどん)したるは、英国紳士の為めに大に気の毒なる心地なり。謹んで紳士の模範を以て目せらるゝ英国人に告ぐ。余は物数奇(ものずき)なる酔興にて倫敦迄踏み出したるにはあらず。個人の意志よりもより大なる意志に支配せられて、気の毒ながら此歳月を君等の麺麭の恩沢に浴して累々と送りたるのみ。二年の後期満ちて去るは、春来つて雁北に帰るが如し。滞在の当時君等を手本として万事君等の意の如くする能はざりしのみならず、今日に至る迄君等が東洋の豎子(じゆし)に予期したる種の模範的人物となる能はざるを悲しむ。去れど官命なるが牧に行きたる者は、自己の意思を以て行きたるにあらず。自己の意志を以てすれば、余は生渡英国の地に一歩も吾足を踏み入るゝ事なかるべし。従つて、かくの如く君等の御世話になりたる余は遂に再び君等の御世話を蒙るの期なかるべし。余は君等の親切心に対して、其親切を感銘する機を再びする能はざるを恨みとす。


英国人は余を目して神経衰弱と云へり。ある日本人は書を本国に致して余を狂気なりと云へる由。賢明なる人々の言ふ所には偽りなかるべし。たゞ不敏にして、是等の人々に対して感謝の意を表する能はざるを遺憾とするのみ(中略)」

帰朝後の余も依然として神経衰弱にして兼狂人のよしなり。親戚のものすら、之を是認するに似たり。親戚のものすら、之を是認する以上は本人たる余の弁解を費やす余地なきを知る。たゞ神経衰弱にして狂人なるが為め、「猫」を草し「漾虚集」を出し、又「鶉籠」を公けにするを得たりと思へば、余は此神経衰弱と狂気に対して深く感謝の意を表するのは至当なるを信ず。」(『文学論』序)


「十二月五日(金)、藤代禎輔(素人)より二船遅れて、 Albert Embankment (アルバート埠頭)から、日本郵船の博多丸(船長 Sommer (ゾンメル)、三八一七トン)(江藤淳調査)に乗り、ロンドンを出発する。 Strait of Gibraltar (ジブラルタル海峡)を通る。 Port Said (ポート・サイド)から、下宿の老婆に、イギリスみたいな処に二度と来るものかという便りを出す。(森田草平が小宮豊隆から聞いた言葉として伝えられたものである) Suez (スエズ)運河を経て、インド洋を横断し、翌年一月二十三日(金)、神戸に上陸する。精神状態は、一時回復していたが、帰国船のなかで少々悪くなったらしい。(鏡)斎藤茂吉の父紀一及びドイツに留学していた医者数名が一緒である。」


「留學中に余が蒐めたるノートは蠅頭の細字にて五六寸の高さに達したり。余は此のノートを唯一の財産として帰朝したり。」(『文學論』)序(荒正人、前掲書)


つづく


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