2025年3月15日土曜日

大杉栄とその時代年表(435) 1903(明治36)年3月1日~2日 「三月二日(月)、正午、英文科学生一同、二十番教室に集り、小泉八雲退職について協議する。その結果、井上哲次郎学長と交渉することになる。午後五時、再び本郷の基督教青年会館にほとんど全部の学生集る。小山内薫(一年)は、総退学の決意で留任運動を行うことを決意し、三年と一年は同意する。二年は反対する。三月八日(日)、安藤勝一郎・石川林四郎・落合貞三郎の三人の代表者たちは、小泉八雲邸(豊島郡大久保村西大久保、現・新宿区大久保)を訪ねる。留任運動は失敗に終る。」(荒正人)

 

小泉八雲

大杉栄とその時代年表(434) 1903(明治36)年2月13日~27日 啄木(17)、文学で身を立てるべく上京するも、空しく帰郷 与謝野鉄幹・晶子の知遇を得た他に収穫なし より続く

1903(明治36)年

3月

台湾銀行香港支店設置。

3月

桂内閣第2次鉱毒調査委員会報告「足尾銅山に関する調査報告書」。

5月、第18議会に提案。作物被害をもたらす銅分は明治30年鉱毒予防令以前に排出されるか残留しているものが大部分として、古河鉱業の責任解除。現在の被害の原因は鉱毒と洪水にある。

鉱毒処分法は、①足尾銅山の予防工事、②足尾の林野経営、③渡良瀬川の治水事業。

渡良瀬川治水事業による谷中村問題が浮上(渡良瀬川・利根川・思川合流地点付近に遊水地を設ける)

3月

荒畑寒村(16)、元海軍大尉軍司成忠の「報効義会」に入会。少年隊を千島占守島に送り、開拓・北門防衛に備える計画。

8日、ゼームス・バラ氏より洗礼受ける。

4月初、占守島に赴くにも職業を覚える必要があるとのことで、横須賀海軍造船工廠木工部見習い職工となる。日給25銭。この頃「万朝報」を愛読し内村鑑三に傾倒。やがて幸徳秋水・堺利彦らの社会主義的評論にひかれていく。

3月

東京築地活版所、大阪で開催の第5回内国勧業博覧会にポイント式活字を出品。

3月

国木田独歩「運命論者」(山比古) 

3月

大井憲太郎「平民の友」刊行。

3月

原抱一庵(余三郎)翻案小説「聖人乎盗賊乎」(上)出版、好評。明治33年に「東京朝日新聞」に連載して後、原自身の著述生活も安定。5月には下巻出版。

3月

虚子、子規の母八重をともない、3週間あまり京阪神に遊ぶ。

3月

(露暦3~5月)露、南ロシア、ゼネスト、ズバートフ組合「ユダヤ人独立労働党」オデッサ支部は指導的役割。

3月

ロンドン~ニューヨーク間で電信によるニュースの定期通信業務、開始。

3月

独、児童労働法(児童労働を制限する法律)施行。

3月1日

第8回総選挙。立憲政友会175、憲政本党85、中正倶楽部31、帝国党17、政友倶楽部13、無所属小会派55議席。野党が圧倒的多数を占める。

3月1日

大阪、第5回内国勧業博覧会。山田式気球が飛揚。7月31日閉会。入場者は435万人。

3月1日

バッシェ・イ・オルドニェス(ホセ・バッシュ)、ウルグアイ大統領に就任(~1907)。スイスをモデルとする民主的立憲主義をめざす。

3月2

小泉八雲、東京帝国大学で「英文学史」の最終講義をする。その後、3年生の安藤勝一郎を委員長とする学生たちの小泉八雲留任運動起る。


「三月二日(月)、正午、英文科学生一同、二十番教室に集り、小泉八雲退職について協議する。その結果、井上哲次郎学長と交渉することになる。午後五時、再び本郷の基督教青年会館にほとんど全部の学生集る。小山内薫(一年)は、総退学の決意で留任運動を行うことを決意し、三年と一年は同意する。二年は反対する。三月八日(日)、安藤勝一郎・石川林四郎・落合貞三郎の三人の代表者たちは、小泉八雲邸(豊島郡大久保村西大久保、現・新宿区大久保)を訪ねる。留任運動は失敗に終る。大学院で漱石の指導で、「詩文に現れた恋愛の研究」という論文を提出した厨川辰夫は、上田敏と共に、小泉八雲から教えを受けた秀才である。」(荒正人、前掲書)


〈ラフカディオ・ハーン解雇に至る経緯(江藤淳『夏目漱石とその時代2』より)〉

「ハーンが文科大学英文科講師に任命されたのは、明治二十九年(一八九六)九月である。このとき彼はすでに日本に帰化して小泉八雲と名のっていたので、お雇い外国人として任用することには法律上疑義あったが、当時の文科大学長外山正一の特別のはからいで、月俸四百円で採用されていた。これは日本人教授の得ていた俸給のおよそ二倍である。・・・外山が健在のあいだは順調に更新を重ねて、俸給も四百五十円にあがった。しかし、明治三十三年(一九〇〇)三月に外山正一が逝去し、井上哲次郎が文科大学長に就任して以来、ハーンはにわかに自分の地位に不安を感じはじめた。

同僚の外人教師たちが、キリスト教徒ではない自分を排斥していると思いこんでいたのは、あるいはこの隻眼の傷つきやすい詩人の通告妄想だったかも知れない。・・・・

おそらく外人教師たちの心中には、宗教的偏見以上に、日本の女と結婚して日本に帰化し、エキゾティシズム流行の風潮に乗って欧米のジャーナリズムで文名を高めているハーンへの、対抗意識と嫉妬とがひそんでいたものと思われる。一方ハーンは、自分の地位に対する不安が昂じるにつれて、お雇い教師という身分に対する不満をつのらせていた。自分はすでに日本帝国臣民小泉八雲であり、日本を海外に紹介した功韻もあるから、教授に任官し、永久身分保障を受けてしかるべきなのに∵いっこうにその気配がないのは不当だというのである。。

任用のいきさつから見ても、これがハーンの期待過剰だったことはいうまでもない。文科大学当局は、もともと思惑的に彼を外人教師並みに処遇したのであり、特に井上哲次郎が学長になってからは、ハーンにこのような処遇をあたえつづけることに懐疑的になりはじめていた。彼はたしかに学生には人気があるように見えたが、同僚の外人教師のあいだでの評判はきわめで悪かった。・・・・・このような大学当局の評価と、ハーンの自己評価が正面衝突したのは、明治三十五年(一九〇二)の十一月、米国のコーネル大学から日本文明についての連続講演を依頼されたハーンが、一ヵ年の休暇を要求したときである。

文科大学長井上哲次郎がこの要求を拒否したのは、もちろん虫がよすぎると思ったからである。この事件をきっかけにして、井上はますます英文科のスタッフを日本人でかためるべきだという確信を深めた。・・・・・

この彊後から、文科大学当局はハーンの持ち時間を十二時間から八時間に減じ、俸給の浮いた分で日本人講師を傭い入れる案を検討しはじめた。候補者に擬されたのは当時英国に留学中の夏目金之助で、この人事については美学担当教授の大塚保治の強力な推薦があった。・・・・・(大学当局は)さしあたりハーンにこの案を示して諒解を求めようとした。文科大学とハーンのあいだは、このとさから決定的に対立した。今度はハーンが露骨に不快の意を表明して、持ち時間を減らすことを拒絶したからである。

明治三十六年(一九〇三)一月十五日、・・・府下豊多摩郡大久保村宇西大久保のハーンの家に一通の文書が届けられた。それは文科大学長井上哲次郎の名による解約通知書で、同年三月二十一日以降契約を継続し得ざることを遺憾とするという簡単な文面が記されていた。ハーンは激昂し、ついでパニックにおちいった。・・・・・

学生たちがハーンの辞職決定を知ったのは二月末である。三月二日、午前十時から二時間連続でおこなわれた英文学史の最終講義のあとで、彼らは教室にのこって留任運動をはじめた。当時の一年生金子健二は、日記に次のように記している。

(略)

三月八日の日曜日、三年生の安藤勝一郎、石川林四郎、落合貞三郎の三人は、学生総代としてハーンの自宅に出かけた。・・・・・

ハーンは自宅では人に逢わぬことにしているといって一旦面会を断ったが、三人が重ねて懇請すると和服を霜てあらわれ、留任運動の報告を受けると奥から解約通知書を持って来て見せた。彼が大学当局への眠激を隠しかねていることは明らかであった。しかし彼は「君たちの好意は決して忘れない」といっただけで、積極的に運動を容認するような素振りは見せなかった。学生たちが辞去するとき、ハーンは玄関の上り口に正坐して、三人が門を出るまで見送っていた。その隻眼には涙が宿っているように見えた。

翌九日、安藤は訪問の結果について楽観的な報告をしたが、出講したハーンの講義の声はいつになく低く、学生たちは筆記に困難を感じた。彼らは、やはりハーンが辞めるのではないかといういやな予感におそわれていた。果して彼はそれ切り大学に来なくなった。・・・・・

文科大学当局がこのような事態の推移にショックを受けたのは当然である。井上哲次郎はあらためてハーンに来校して面談するよう要請したが、彼はあらわれようとしなかった。井上は西大久保の自宅を訪ね、俸給と持ち暗闇を減らしてひきつづき出講するよう重ねてすすめた.しかしハーンはこの申し入れを拒絶し、大学と彼との関係は全く決裂した。」


つづく

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