1903(明治36)年
2月13日
島田三郎(50)、横浜・喜楽座での衆議院議員立候補政見発表演説会で「横浜市民諸君につぐ」を演説。応援弁士巖本善治は「嗚呼是れ一選挙区の事にあらず」を、田口卯吉は「市民の利害」を演説。
16日、元街の万竹亭でも演説。
島田は3月2日最高点で当選。
2月13日
高橋泥舟(69)、没。幕末三舟(勝海舟・山岡鉄舟・高橋泥舟)の1人。
2月13日
米・キューバ協定締結。キューバ保護国化。
2月13日
ベネズエラ、ワシントンで英独伊連合軍との協定に調印。
14日、ベネズエラの湾岸封鎖解除命令。
2月14日
米議会、商務・労働省を設置。内閣に長官を置く。
2月17日
文芸協会の発会式。
2月18日
5代目尾上菊五郎(60)、没。9月13日には九代目団十郎も没し、歌舞伎が滅亡に瀕したと言われる。
2月19日
米、エルキンズ法制定。
2月21日
中島健蔵、東京に誕生。
2月21日
下村観山(29)、横浜港から博多丸で出航、絵画研究のためロンドンに向かう。
平田禿木(30)、同じ船で文部省留学生としてイギリスに向かう。39年6月16日帰国。
2月21日
漱石
「二月二十一日(土)、菅虎雄を訪ね、食事(昼食か夕食か不明)馳走される。
二月二十二日(日)、菅虎雄宛手紙に、二月二十六日(木)、牛込区北山伏町三十一番地(現・新宿区北山伏町三十一番地)に移転することを伝える。(これは、漱石の探した貸家である。この移転は実現しない。理由は分らぬ)」(荒正人、前掲書)
2月21日
オーストリア・ハンガリー帝国(ハプスブルク帝国)、ドイツ両国、マケドニアの改革についてオスマン帝国と交渉。
2月23日、オスマン帝国皇帝、独墺露のマケドニア改革要綱受諾。1902年の反トルコ支配暴動を考慮し警察機構と財政組織改編。
2月22日
長野県白山舘、長野音楽演奏会開催。6月には仙台市でも開催され、各地で西洋音楽会が盛んに。
2月23日
米、革命内戦中のホンジュラスに武力介入。
2月24日
徳富蘆花、自分で出版社「黒潮社」を設立し、「黒潮(こくちょう)」発行。巻頭に、「国民新聞」に掲載しようとして拒否された「告別の辞」を載せる。3ヶ月で8千部を売る。
26日には、「読売新聞」が「蘆花氏国民新聞を去る」と書いて兄弟の訣別の事情を報じ、「毎日新聞」は、「黒潮」の「告別の辞」を「情満ち義尽く」(木下尚江)として蘆花を支持。官僚の代弁者と看做される蘇峰を嫌う人たちは、蘆花を支持する。大町桂月(雑誌「太陽」の評論担当)、内村鑑三、島田三郎、大隈重信
2月26日
ロシア、韓国に対しかねて韓国から取得していた鴨緑江沿岸の森林伐採権行使を申入れ。ベグラゾフ大尉が設立した「東亜木材会社」。
1月中旬、ベグラゾフは、大連の関東長官アレクセーエフ海軍中将(株主)を訪問し、皇帝(株主)が兵力の鴨緑江左岸(韓国領)移動・独立支隊の鳳凰城派遣など要請したことを伝える。
2月26日
黒岩涙香(40)、横浜・雲井座での自由投票同志会主催の演説会で「選挙の真趣」を演説。幸徳秋水「自由投票と横浜市」、佐治実然「神聖なる一票」、木下尚江「横浜市と選挙を評す」、安部磯雄「紐育市と横浜市」など演説。
2月26日
啄木(17)、帰郷。
1月上旬、下宿料滞納により大館みつ方を追われ、京橋付近の鉱業会社に勤務の佐山某に助けられ、20日程神田錦町の下宿に泊まる。2月26日、父に迎えられ東京発。丸善でC・A・リッジー「Wagner」購入。27日帰宅。
何の伝手もない無名の少年に生きる余地のない東京の現実であった。迎えに来た父一禎は、自分が住職をする寺の栗の木を売って上京の費用20円を得たという。
前年の明治35年10月27日、卒業まで半年を残して盛岡中学校を退学(入学時は128名中10番の成績。しかし、5年生になると出席時間は欠席時間の半分という状態になり、カンニング事件により譴責処分をうけ、自ら退学)
10月31日には文学で身を立てるべく上京。
退学直前、「明星」に採録された短歌
「血に染めし歌をわが世のなごりにてさすらひここに野にさけぶ秋」
中学校の先輩細越省一の厚意で小石川区小日向台町の大館みつ方に下宿。ここで先輩の野村長一(胡堂)から忠告されて神田付近の中学校を尋ね、5年生への編入を照会したが、欠員なく入学できず。やむなく初めの予定通り斎藤秀三郎の経営する正則英語学校高等受験料に入学すべく資料を貰ってくるが、学資の関係で実現せず。あてにしていた北海道の山本千三郎(姉トラの夫)より送金があったが、当座の生活費を補う程度で、高等受験料で勉強するだけの余裕はない。
啄木は東京新詩社の会合に出席したり、与謝野鉄幹・晶子を渋谷の自宅に訪問して知遇を得た他には収穫もなく、英語研究や大橋図書館での読書に日々を過ごし、生活の方途もつかず無為の日が流れる。
啄木は神田錦町の日本力行会に友人の金子定一(中学校の後輩で盛岡中学校中退後力行会で働きながら夜間中学で勉強していた)に相談すると、同じく力行会で働く友人の紀藤方策を紹介してくれて、その紀藤が金港堂の雑誌「文芸界」の主筆佐々醍雪(山口高等学校の卒業生で恩師にあたる)への紹介状を書いてくれた。
12月8日、啄木は金港堂に出かけたが、就職どころか醒雪に面会も断わられる。
啄木が佐々醒雪に一顧だに与えられなかった理由は、この年6月1日「岩手日報」に書いた「五月乃文壇」で、醒雪及び雑誌「文芸界」を批評したことによるものと思われる。
「醒雪の所謂温健な態度は世の一部では歓ぶであらうが、吾々はとらない。何故となれば、往々温健は懸念が多すぎると無気力となり、無気力はまゝ没見識に終るからである。」「『文芸界』は材料豊富な代り、雑駁の誹を免れない。殊に所謂青年文士の為にすると云ふ寄書欄の如き、アンナ制限をつけないで大いに奨励してもらひたいものである。主筆醒雪さては胆の小さい人。」と書いている。
2月26日
英、外国人労働者急増のため上院議員が移住制限立法要求。
2月27日
新聞号外乱発取締規則を公布。
つづく
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