2025年3月13日木曜日

大杉栄とその時代年表(433) 1903(明治36)年1月27日~2月11日 漱石、「一月から二月にかけて、毎日のように借家を山の手方面に探す。 菅虎雄と一緒に歩くこと多い。 大塚保治から百円か百五十円借りる。」(荒正人)

 

川上 貞奴

大杉栄とその時代年表(432) 1903(明治36)年1月20日~25日 漱石、イギリスより帰国 「一月二十四日(土)、晴。鏡、中根重一と共に、国府津まで出迎える。午前九時三十分、新橋停車場に到着する。家族・親戚のほか寺田寅彦迎えに出ている。斎藤紀一や医者数人も一緒である。牛込区矢来町三番地中ノ丸(現・新宿区矢来町三番地)中根重一方に落着く。筆は脅えたように避け、恒子はおできだらけで、人見知りして泣く。(鏡、留守中休職給年額三百円月割二十五円で、製艦費一円五十銭その他を差し引かれて、二十二円足らずで暮す。鈴木禎次から百円を借りて、迎える準備をする。)」(荒正人) より続く

1月27日

漱石、大竜寺の子規の墓に参る。


「その時の感想として次のように記す。「霜白く空重き日なりき我西土より帰りて始めて汝が墓門に入る爾時汝が水の泡は既に化して一本の棒杭たりわれこの棒杭を周る事三度花をも捧げず水も手向けず只この棒杭を周る事三度にして去れり我は只汝の土臭き影をかぎて汝の定かならぬ影と較べんと思ひしのみ」(雑篇「無題」明治三十六年頃(小宮豊隆))(「漱石全集」第十二巻、岩波書店刊)江藤淳は、本法寺(小石川区小日向水道端)の直矩妻登世の墓に詣でた時のこととしている。」(荒正人、前掲書)

中絶した漱石の子規追悼文


水の泡に消えぬものありて逝ける汝と留まる我とを繋ぐ。去れどこの消えぬもの亦年を逐ひ日をかさねて消えんとす。定住は求め難く不壊(ふえ)は尋ぬべからす。汝の心われを残して消えたる如く、吾の意識も世をすてて消る時来るべし。水の泡のそれの如き、死は独り汝の上のみにあらねば、消えざる汝が記臆のわが心に宿るも、泡粒の吾命ある問のみ。

淡き水の泡よ、消えて何物をか蔵(かくさ)む。汝は嘗て三十六年の泡を有ちぬ。生けるその泡よ、愛ある泡なりき信ある泡なりき憎悪多き泡なりき〔一字不明〕しては皮肉なる泡なりき。わが泡若干歳(いくばくさい)ぞ、死ぬ事を心掛けねばいつ破るると云ふ事を知らず。只破れざる泡の中に汝が影ありて、前世の憂を夢に見るが如き心地す。時に一弁の香を燻じてこの影を昔しの形に返さんと思へば、烟りたなびきわたりて捕ふるにものなく、敲(たた)くに響なきは頼みがたき曲者なり。罪業の風烈しく浮世を吹きまくりて愁人の夢を破るとき、随処に声ありて死々と叫ぶ。片月窓の隙より寒き光をもたらして曰く。罪業の影ちらつきて定かならず。死の影は静なれども土臭し。今汝の影定かならず亦土臭し。汝は罪業と死とを合せ得たるものなり。

霜白く空重き日なりき。我西土より帰りて始めて汝が墓門に入る。爾時(そのとき)汝が水の泡は既に化して一本の棒杭たり。われこの棒杭を周る事三度、花をも捧げず水も手向けず、只この棒杭を周る事三度にして去れり。我は只汝の土臭き影をかぎて汝の定かならぬ影と較べんと思ひしのみ。

1月29日

「湖北学生界」、東京で創刊。中国留学生の雑誌発行続く。

1月29日

堺枯川「孟子を読む」(「万朝報」)。王道的平和論を説き、日本の武力侵略を批判。

1月29日

大阪巡航(資)設立。市内下線運行開始。翌年4月浪速巡航(株)も設立。

1月30日

歌人中島歌子(58)、没。

1月30日

堺利彦(33)の長女、真柄誕生。妻美知子。

1月30日

漱石

「一月三十日(金)、暗。午後、外出中に寺田寅彦来る。夜、再び来る。中根重一も来合せて、九時まで語る。

一月下旬(日不詳)、東京帝国大学構内山上御殿で、野間真綱そのほか第五高等学校出身者で歓迎会を開く。(野間真綱)

一月から二月にかけて、毎日のように借家を山の手方面に探す。

菅虎雄と一緒に歩くこと多い。

大塚保治から百円か百五十円借りる。

鏡は一月以来風邪気味である。(後に肋膜炎と分る。(鏡))」(荒正人、前掲書)

1月31日

京都錦ネル会社男工200人全員、監督排斥を要求してストライキ。会社側は監督を解職、首謀者8人を解雇。


2月

朝鮮、龍岩里事件。ロシア「東亜木材会社」挺身隊、鴨緑江河口の韓国領龍岩里に進出。京城のロシア公使館通訳朴享俊を龍岩里に派遣し、土地買収を始める。その後、ロシア兵が送り込まれ、軍事基地を建設しようとする。

2月

韓帝、中立承認を各国に打診。

2月

東京市で最初の直営小学校(細民地区の子女の為の特殊小学校)である万年尋常小学校、開校。230人が入学。進度の遅れた児童の為の特別学級や昼間働いている児童の為の夜学部が設置。

前年、直営小学校5校の設立計画を持つが、貧窮のため就学免除・猶予を得た児童数は、市教育課が掌握していただけでも、本所3千、深川2千はじめ全市で1万3千を越え、実際には更に多数と推測され、「五箇の学校は実に一時の急を救ふに過ぎずして将来少くも十余校の増設をなすに非ざれは満足に貧家の子弟を収容すること能はざるぺし」と予測されている。

2月

この月初め、ペスト予防のための捕鼠数が186,668頭と発表される。

2月

小杉天外(38)「魔風恋風」(「読売新聞」)連載。前年、尾崎紅葉が「読売」から「二六新報」に移ったため、その穴埋め。硯友社系統ではない。

「純粋な文学を求めて、四年間病と貧とに負けずに戦って来た小杉天外は、「魔風恋風」に成功したために、最も尖端的な風俗を書ける通俗作家として突然著名になった。彼が苦労して身につけたゾラ張りの風景描写や気の利いた会話や新時代人の性格の描き方は、そのまま新しい通俗小説を書くのに役立った。「魔風恋風」は彼に、一枚三円という「読売」では前例のない高い原稿料を払わせ、同時に彼を純文学の世界から駆逐した。」(伊藤整「日本文壇史」)

2月

泉鏡花、逗子より上京、牛込神楽坂に住む。

3月、神楽坂の芸者伊藤すゞ(明治32年1月に知り合う)と同棲を始める。鏡花は、すゞの前借を返済し彼女を自由の身にした。

2月

漱石


「二月(日不詳)、高浜虚子と神楽坂で会食する。」(荒正人、前掲書)

2月

英の新聞「ザ・グローブ」、史上初めて新聞印刷の全電動化を発表。

2月

英政府、植民地相ジョゼフ・チェンバレンの南アフリカ訪問後、南アフリカの政策認識を変更。ボーア人との和解政策進める。英優位の政策が実現不可能であり、南アフリカ領内における英蘭対等政策のほうが、より良識にかなっていることを認める。

2月

米、反トラスト法強化。

2月

トーマス・マン「トーニオ・クレーガー」(「ノイエ・ドイッチェ・ルントシャウ」誌)

2月3日

英、北部ナイジェリアのカノ占領。

2月5

韓国の漢城府判尹、第一銀行券の流通禁止。

2月7

ロシア、東三省撤兵中止。

2月7

漱石


「二月七日(土)、曇。渡辺和太郎(横浜市元浜町一丁目一番地、現・横浜市中区元浜町)を訪ね、田中孝太郎の案内で横浜を見物する。」(荒正人、前掲書)

2月9

英・ペルシア、通商条約締結。

2月11

川上貞奴の国内デヴュー、「オセロ」のデズデモーナ役、明治座。脚本は江見水蔭(700円)。

2月11

漱石


「二月十一日(水)、晴。紀元節。「暖にて風もなくのどかなる春の景色となれり。百一發の祝砲の音も楽し。」「馬車にて上野へ行く。人出多し。根岸なる岡野へ行く。帰途、大學門前にて夏目先生に會ふ。」(「寺田寅彦日記」)

二月中旬頃(日不詳)、菅虎雄(小石川区林町六十四番地、現・文京区千石二丁目)を訪ね、借家その他の件で相談する。」(荒正人、前掲書)

つづく

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