東京 靖国神社(2011-11-14)
(見頃はまだあと2週間後くらいでしょう)
*永禄10年(1567)
9月
・この頃の織田信長の部将:美濃攻略過程で信長の軍団は拡大。
丹羽長秀、木下秀吉、森可成、坂井政尚、蜂屋頼隆が部将に昇格。
更に、美濃3人衆(氏家直元(卜全)・稲葉良通(一鉄)・安藤守就)が軍団に加わる。
美濃3人衆:氏家は大垣城、稲葉は曾根城、安藤は北方城が本拠地。
信長はこの後も彼等を尾張出身譜代部将と差別せず使い、3人衆もこれら譜代に劣らぬ活躍。
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・信長、美濃北加納圓徳寺へ還住に関する掟書を下す(「圓徳寺文書」)。
善福寺千手堂へ全3ヶ条の禁制を下す(「善福寺文書」)。
崇福寺へ禁制を下す(「崇福寺文書」)。
多芸庄椿井郷へ、伊勢国「太神宮領」であるから伊勢寺が所在することを了承、陣取・放火・濫妨・狼藉・伐採竹木・「非分之族申懸之事」の一切を停止。違背者は成敗すると通達(「大西源一氏蒐集文書」)。
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・フランス、第2次宗教戦争開始(1567~1568)
ルイ・ド・コンデとガスパール・ド・コリニー及びアンリ・ダンドロ(コリニー弟)のユグノー派、国王シャルル9世、カトリーヌ、アンジュー公アンリ、ロレーヌ枢機卿の身柄奪取を計画。
モーのモンソー城に滞在中のカトリーヌ、ブリュッセルのアルバ公からの通知で陰謀を知る。
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9月2日
・山科言継、葉室山で栗拾いをし、御室や京都六町の知人宅へ配る(「言継卿記」同日条)
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9月3日
・播磨より別所氏が「番替」として派遣した軍勢2千、大坂へ到着。
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9月4日
・根来衆、三人衆方の吐田郷を焼く。
5日、根来衆、幸田城を攻めるが落とせず退く。
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9月5日
・根来衆・屋形衆3千、大和へ侵入し戦闘。
13日、根来寺衆、河内烏帽子形城を攻撃するも敗退。
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9月9日
・ネーデルランド、アルバ公フェルディナンド、新教徒指導者エグモント伯、ホールネ(ホルン)伯らを逮捕
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9月10日
・信長、美濃棚橋氏(上加納村庄屋)へ、北加納での竹木伐採・乱妨・狼藉を一切停止し、諸事「先規」の通り申付ける(「上加納棚橋家文書」)。
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9月15日
・大友宗麟、マカオ滞在中のドン・ベルショール・エルネイロ司教に、硝石の日本輸入独占権を自分に与えるよう要請。
宗麟は、「山口の国主、すなわち毛利元就に対して自分が勝利を博するためには、貴下の援助により、硝石の日本輸入は、自分以外の者にはいっさい禁止されたい」と要請。
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9月23日
・フランス、午前4時、国王一家、スイス傭兵(フィッファ隊長、6千)の護衛によりパリ到着。
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9月28日
・細川昭元、山城諸関の役銭を今村慶満へ沙汰させる。
山科言継はこの件を三好三人衆へ訴える。(「言継卿記」)
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9月29日
・浅井長政・信長同盟。
浅井長政、信長の妹お市の方を妻に迎え入れ信長と同盟を結ぶ。
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9月29日
・フランス、聖ミカエルの日事件。
フランス南部ニーム、新教徒が旧教徒150人を虐殺。
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10月
・信長、稲葉山城下加納市場を楽市場とする制札(全3ヶ条の定(楽市令))発す。
加納(圓徳寺)寺内市場解体令。
寺内特権否定・寺内町解体のうえ、一向宗寺内という小都市を信長分国(領国)=政治・経済の一環に作りかえる。
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・信長、美濃美江寺へ全3ヶ条の禁制を下す(「美江寺文書」)。
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10月2日
・フランス、ユグノー軍、サン・ドニに布陣、パリを兵糧攻め。
コンデ公のカトリーヌに対する要求
(フランス国内での宗教と礼拝の完全な自由。減税。三部会召集。政府内のイタリア人全員を追放。メッス、ル・アーヴル、カレーの三都市の返還)。
カトリーヌ・ド・メディシス、交渉を継続して時間・金を稼ぐ。
資金(叔父トスカナ大公コジモ・デ・メディチ。サヴォイア公。教皇ピウス5世)。
援軍到着し、数ではユグノー派を上回る。
ギーズ公アンリ、ユグノーの援軍ドイツ騎兵をシャンパーニュに釘付け。
アキテーヌ地方のモンリュック元帥、ガスコーニュのユグノー軍北上を阻止。
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10月3日
・坂井政尚・森可成、美濃武芸八幡寺へ織田信長「御制札」が存在する上は「異儀」無きこと、「前々より相替られず」(斎藤氏に代わり信長が領主となったが相違無き)ことを通達(「武芸八幡宮文書」)。
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10月6日
・信長、美濃手力雄神社へ禁制を下す(「手力雄神社文書」)。
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10月6日
・ネーデルランド、パルマ総督辞任。アルバ公が全権掌握。
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10月10日
・松永久秀7千、義継を助けるため大和興福寺に拠って三好三人衆の立てこもる東大寺攻め、東大寺大仏殿焼払う。大仏の首も転がり落ちる。
氷室山の別所・郡山辰巳勢は陣を焼いて落ちる。
フロイス「日本史」によれば、勇敢なキリシタン兵士が「礼拝と崇敬のことに熱心(なあまり)…密かにそれに火を放った」とある。
フロイスは、これを日本でのイエズス会の功績の一つとして報告。
イエズス会は仏像・寺社破壊を奨励している。
「常山紀談」によれば、のちに信長は家康に対し、同席の久秀を指して、「この人は、尋常の人間にはできない三大悪事をやってのけた」と言い、将軍義輝の殺害、大仏殿焼討ち、主君三好長慶の殺害をあげる。
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10月19日
・武田信玄、嫡男義信(30)の謀叛発覚、自刃させる。
今川氏真は武田信玄と絶交し上杉輝虎と結ぶ。
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10月20日
・多聞院英俊、東大寺大仏殿の焼跡を見回る。
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10月20日
・三淵弾正某・香西某、山城黒山辺りに出撃。
これに対し三好久介(三好長逸子息)は如来堂を出て普賢寺谷まで退却したところ討たれる。
公方衆(足利義栄軍)は大打撃(「多聞院日記」)。
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10月21日
・松山安芸守・山口某、飯盛城を出て堺へ移動
(15日、松山安芸守は再び三人衆方へつく)。
飯盛城は篠原長房・三好長逸が請け取り入城(「多聞院日記」)。
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10月26日
・池田勝正、少数の軍勢を残して摂津へ退却。
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10月27日
・松永久秀・久通父子、連名で春日社山内(興福寺)へ3ヶ条の禁制を下す。
三好義継からも同文言の制札あり。
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