2011年11月13日日曜日

延暦25年・大同元年(806)3月~5月 桓武天皇(70歳)没す。 皇太子安殿親王(33歳)が即位(平城天皇)。同日、「大同」に改元。

東京 雨の北の丸公園(2011-11-11)
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延暦25年(806)
3月17日
桓武天皇(70歳)没。在位25年

桓武が死に臨んで遺言したことは、延暦4年の種継事件に関わって除名された大伴家持ら関係者の名誉回復と、早良親王の供養のために諸国国分寺で金剛般若経を読ませること。
死ぬ間際まで、種継事件と早良親王の崇りを気に懸けていた。

皇太子安殿親王は激しくもがいて泣き叫び、参議坂上田村麻呂と東宮大夫藤原葛野麻呂に支えられて殿を降りたという。

桓武の遺言。
「崇道天皇の奉為(おんため)に、永く件の経を読ましむ。」(『類聚三代格』延暦25年3月17日官符)
「件の経」は『金剛般若経』のこと。
この言葉に基づいて、永く諸国の国分寺で春・秋の7日間、『金剛般若経』を転読することにし、この法会は後に年中行事となる。
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4月1日
・中納言藤原雄友が坂上田村麻呂・藤原緒嗣ら10人を率い誄(しのびごと)を行い、桓武に日本根子皇統弥照尊(やまとねこあまつひつぎいやてらすみこと、皇統を盛んにした天皇という意味)という和風諡号を奉呈(『日本後紀』)。

征夷の事蹟に因んで「桓武天皇」という漢風認号が奉呈されたのは、天長2年(825)までのこと。
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4月7日
・桓武天皇、山城国紀伊郡の柏原山陵に葬られる。

桓武天皇を評し、
「宸趣(しんきよく)に登りてより、心を政治に励まし、内に興作(こうさく)を事とし、外に夷狄を攘(はら)ふ。当年の費えと雖も、後世の頼(たのみ)りなり。・・・」
という(『日本後紀』大同元年4月庚子条)。

桓武が2度の遷都と3度の征夷を行ったが、以降の天皇は桓武の遺産を頼みとして、自らはそれを行う必要がなくなった。
桓武朝の征夷を補完するためのものとして、嵯峨朝の弘仁2年(811)に文室綿麻呂の征夷があるが、それ以後征夷はない。
また平安京は、平清盛が半年ほど福原に遷都したことを除き、明治維新まで日本の首都であり続けた。
   
桓武を最後として、天皇の諡号から「武」が消える
「武」を含む諡号を持つ天皇は、伝説上の神武を含め、武烈・天武・文武・聖武・桓武の6人であるが、全て桓武以前。

天皇に「武」が求められた時代は桓武朝で終わり、桓武の没は国家の武力を統帥する軍人天皇の終鳶である。
自ら将軍に節刀を与え、将軍を叱責し、征夷の成果を自己の権威強化に役立てる天皇は、桓武を以て終わる。
最後の征夷が行われた嵯峨朝は、年中行事や儀式が整備された時期であり、これ以後の天皇は、軍事指揮権に代表される政治指導力を求められることはなく、天皇の行動は毎年の年中行事の中に埋没していく。    

桓武が絶対的な権威と権力を持つ中国的な皇帝を追求した結果、天皇の地位と権威は安定した。
天皇の政治的権威の安定化に、桓武の「軍事と造作」が大きな役割を果たした。
征夷と造都などの桓武の諸施策は、桓武自身の権威を高めただけでなく、それ以後の天皇の地位をも安定させた。

9九世紀中頃の幼帝の出現は、その安定化が前提となっている。
桓武朝の征夷とその終焉は、東北の歴史のみならず、王権のあり方にも多大な影響を及ぼした。
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5月18日
桓武の皇太子安殿親王(33歳)が即位(平城天皇)
同日、「大同」に改元

父の死に臨んで激しく悲しんだ安殿親王であるが、即位と同日に元号を父の「延暦」から自身の「大同」に改めた。
これは先帝に敬意を表して即位の翌年に改元する踰年(ゆねん)改元の原則に反するため、『日本後紀』は「非礼」としてこれを批判している。
踰年改元は、桓武天皇が天応から延暦への改元で実施した例があるものの、奈良時代には即位と同時に改元することが普通に行われており、この段階で踰年改元の原則が固まっていたかどうかは疑わしい。
あくまで『日本後紀』編纂段階での評価である。

即位の翌日、祖母高野新笠に太皇太后を、母藤原乙牟漏に皇太后を贈り、これによって光仁の正妻は新笠であり、桓武の正妻は乙牟漏であることを確定した。

こうして嫡妻の子の系譜を、自身と同母弟神野(かみの、後の嵯峨天皇)に絞った上で、その神野親王を皇太子に立てる
他に兄弟としては大伴親王(後の淳和天皇)がいる。    

平城天皇の第1皇子は阿保(あぼ)親王で、葛井藤子(ふじいのふじこ)を母として延暦11年(792)に生まれている。
また、後に皇太子に立てられる高岳(たかおか)親王も、伊勢継子(いせのつぐこ)を母として延暦18年(799)には生まれている。
もし平城天皇が、親王たちの母の1人を皇后に立てれば、平城の同母弟、神野親王の運命は暗転する

しかし平城天皇は、皇太子時代の妃で子女に恵まれなかった故藤原帯子(たいし)(延暦13年5月没)に皇后の位を贈り(大同元年6月)、自分の血統からは皇位継承者を立てないことを明示した。
葛井藤子・伊勢継子では、幼い皇太子にとって、外戚の勢力が弱すぎる。
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5月24日
・六道観察使の創設と参議制の廃止。
この地方行政に関する監督官制は、8世紀以来の巡察使、問民苦使の系譜をひくもので、平城の政府は、実効が上がらず停滞していた地方行政に活を入れようとした。

観察使制は、道別に使(かみ)・判官(じよう)・主典(さかん)各1名で構成される。
それらの官は、管轄する道の諸国に出向き業務を遂行するが、そこには常駐せず大半の時間を京裏で過ごす。

延暦16年(797)頃から勘解由使が処理してきた解由の件も、観察使が司ることになり、この年閏6月に勘解由使は廃止される。
観察使の長官は全て参議とし(参議制は廃止)、特典として食封(じきふ)200戸が与えられる。

天皇の彼らへの要請は、中央の財源増強のために国・郡司を督励して農民からの諸税、とくに調・唐の徴収を確実にすることである。
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1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

それ以前の出雲帝国でつくられたたたら特殊鋼(刀剣の素材)の権益を収奪できたから達成されたのだと思います。ただし、考古学者は物証として大和に鉄器が少なすぎるといいい一部の学者は奈良は雨が多いのでさびて朽ち果てたといいます。それとは別に変な鉄鋼材料への論法があります、文明を進めるため我々は石器→青銅器→鉄器→半導体と進んできた。しかし何故セラミックスや有機材料は鉄鋼材料を凌駕できないのか、という。
 高性能個体材料は鉄鋼材料なのに新日鉄住金らはM商事などに洗脳され鉄鋼メーカーという名前の届きにくさ
を確立してしまった罪は重大である。とにかく株価などは瞬間的な噂に操られやすいが、素材の歴史は
落ち着くとこに落ち着くという諦念も一方で持ちながら世界の進化を見つめなければならないのでは?