2011年11月23日水曜日

川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(8) 「七 崖の上の家 - 偏奇館独棲」

東京 北の丸公園(2011-11-16)
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川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(8) 
「七 崖の上の家 - 偏奇館独棲」

昭和10年6月3日
「道源寺坂は市兵衛町一丁目住友の屋敷の横手より谷町電車通へ出づる間道に在り。坂の上に道源寺。坂の下に西光寺といふ寺あり。この二軒の寺の墓地は互に相接す。西光寺墓地の生垣は柾木にて其間に蔦と忍冬の蔓からみて茂りたり。五六月の交忍冬の蔓には白き花さき甘き薫りを放つ」
同じ山の手でも、大久保のような平坦の地と違い、麻布市兵衛町は、崖に富んでいるところがいいと書く。
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現在の道源寺坂(六本木一丁目)
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大正14年12月21日
「(崖下の風景)英泉が藍摺の板画を見るが如し。是同じ山の手にても、大久保の如き平坦の地に在りては見ること能はざる光景にして、予の麻布を愛する所以なり」

大正9年5月23日
築地から移転。
「この日麻布に移居す。
母上下女一人をつれ手つだひに来らる。
麻布新築の家ペンキ塗にて一見事務所の如し。
名づけて偏奇館といふ
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「偏奇館跡」碑
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単身者の荷風が暮しやすいように、室内も西洋風に作られた。
荷風は、当時、洋家具業者が集まっていた芝の愛宕下の西洋家具店に行き、家具を吟味。

大正9年1月3日
「麻布の家工事竣成の暁は西洋風に生活したき計画なればなり。
日本風の夜具蒲団は朝夕出し入れの際手数多く、煩累に堪えず」

大正9年6月8日
「居宅と共に衣頬に至るまで悉く西洋風になしたれば、起臥軽便にして又漫歩するに好し」

邦枝完二の随筆「偏奇館去来」
邦枝は、「三田文学」の発行所の籾山書店に勤務。
編集者として偏奇館に荷風を訪ねた頃の思い出。
「この居に移られるまでの先生は、常に結城絲織の頬を身に纏ふて、シャツ股引を着けたことなく、江戸時代の風俗を殆んどその儘に過して来られたのであつたが、大正九年この方、和服は悉く筐底に収めて、今は寝衣さへ一枚の浴衣を用ゆることもない」という。

荷風は、「何しろこゝの家には畳といふものがないので、日本画を描くにはまったく不向なんですからね。どうしても描かなければならない時は、仕方なしにリノリユームの上に莫蓙を敷いて、その上へ更に毛氈を布いて描くことにしてゐるんです」と、云ったという。

江戸趣味は、妾宅を構えるという二重生活によって満足させる
崖の上の西洋館に住む近代人荷風が、時折り、崖の下の日本家屋に住まわせている女の家に出かけて行き、仮構された江戸を瞬時味わうという二重生活を楽しむ。

昭和10年代に麻布市兵衛町に住んでいた中国文学者奥野信太郎(明治32年生)、岩波書店版『荷風全集』第20巻の月報(昭和39年)に、当時の市兵衛町と、偏奇館について書いている。

「同じ町(*市兵衛町)に荷風の偏奇館があった。一丁目六番地といえば、田中銀之助という富豪の数奇を凝した邸宅の横を、細径に導かれてはいったところである。細径であるからもちろん車を横づけにすることはできない。表通りでのりすてて、あとは徒歩によるほかはいたることはできないが、まさに市隠の居るべき地として、めずらしいところである」

「偏奇館はその細径の突きあたりにあった。左横と裏とは崖に面し、崖下には谷町の貧家の群を見下ろす位置にあった。偏奇館は水いろペンキ塗りの古風な洋館で、窓にはブラインドがとりつけてあった。ぼくの知るかぎり、たった一度ペンキの塗りかえがあり、そのときはめずらしく偏奇館が生き生きとみえたことを記憶している。門扉は引戸二枚で、小さな門標にはただ楷書で永井とだけ書かれてあった」

引越した直後の6月19日
「偏奇館の窓に倚りて対面の崖を眺むるに、新樹の間に紫陽花の蒼白く咲き出でたる、又枇杷の實の黄色に熟したるさま、田家の庭を見るが如し」

昭和10年5月10日
芝の増上寺の鐘の音が偏奇館に聞えてきたことに感動。
「暮近く鐘の響きこゆ。東南の方より響き来るを以て芝山内の鐘なるを知る。飛行機自働車ラヂオ蓄音機などの響絶え間もなき今の世に折々鐘の音を耳にする事を得るは何よりも嬉しさかぎりなり」
「われより外には人なき家に在りて鐘の音をきく時、わが身はさながら江戸時代のむかしに在るが如き心地す」

社会に対しても、人間に対しても、つねに一定の距離を持った荷風にとっては、崖の上から遠くを見るという視覚は、生来の気質にも、作家としての気質にも、もっとも合ったものになった。
偏奇館という崖の上の家は、荷風にとって生活の拠点であると同時に、精神的な場所として象徴的意味を持つようになった
「家庭」よりも「館」「屋敷」あるいは「書斎」が重要になった。」(川本)

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