2011年11月5日土曜日

川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(4-2) 「三 「持てあます西瓜ひとつやひとり者」 - 単身者の文学」(その2)

東京 江戸城東御苑のジュウガツザクラ(2011-11-02)
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川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(4-2) 
「三 「持てあます西瓜ひとつやひとり者」 - 単身者の文学」
(その2)
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まず、子ども嫌い。
昭和2年1月6日
偏奇館近くの箪笥町崖下の小道を歩いていると、一群の児童がうしろから、荷風をからかって拍手哄笑して逃走した。
そこからムキになって日本の文教政策、国家教育の堕落にまで話を広げ、最後に、

「余は唯老境に及んで吾が膝下に子孫なきを喜ばずんば非らざるなり」

と書く。

次に、妻嫌い。
昭和2咋9月22日(夏目漱石の未亡人を批判)
「改造」10月号に漱石未亡人の漱石の思い出が談話の形で出ていた。
そのなかで、未亡人は漱石が「追蹤狂とやら称する精神病の患者」だったと語る。
また、漱石の若いころの失恋のエピソードまで打ち明けている。
荷風はこれを読んで「不快」に思う。
夫の死後、妻たるものが夫の秘密を公けにするとはなにごとか。

「未亡人の身として今更之を公表するとは何たる心得違ひぞや」

「(漱石の)死後に及んで其の夫人たりしもの良人が生前最好まざりし所のものを敢てして憚る所なし、噫何等の大罪、何等の不貞ぞや」と悲憤憤慨。

「余は家に一人の妻妾なきを慶賀せずんばあらざるなり」

子どもも嫌い、妻も嫌い。
家族を必要としない荷風にとっては、子どもよりも妻よりも金のほうが大事になる。
単身者の自由を保障してくれるのは、金といううっとうしくないものしかない。

相磯凌霜のインタビュー集『荷風思出草』(毎日新聞社)。
もし入院するようになったらどうするのかという質問に答え、

「そうなれば結局子供よりお金ということになる。お金がなければ子供もうまくいかないから、お金がいちばんということになってくる・・・」。

単身者としての自由な生活をまっとうするためには経済的な安定しかないという荷風のリアリズム感覚。

単身者荷風のひそかな楽しみ:夏の曝書と、晩秋の落葉掃き。

大正14年8月30日。庭でひとり曝書をする。
「風ありて稍涼し。曝書の労久しく見ざりし書物何といふことなく読みあさるほどに、暑き日も忽ち西に傾き、つくつく法師の啼きしきる声せはしなく、行水つかふ頃とはなるなり。
予は毎日この時刻に至り、獨り茫然として薄暮の空打ながめ、近鄰の家より夕餉の物煮る臭の漂ひ来り、垣越しに灯影のちらほら輝き出るを見る時、何とも知らず獨無限の詩味をおぼえて止まざるなり」

「無限の詩味」は、単身者のささやかな独居から生まれている。

単身者の気楽さは、正月によくあらわれる。
どこにも年賀に行かないし、客もこない。

大正7年1月1日
「例によって為す事もなし。午の頃家の内暖くなるを待ちそこら取片づけ塵を払ふ」
(正月から部屋掃除)。
2日は父親の命日なので例年のとおり、雄司ケ谷に墓参。
3日には早くも机に向かう。
「燈下に粥を煮、葡萄酒二三杯を傾け暖を取りて後机に対す」

「日乗」初期には、単身者の静かな生活が淡々と記述されている。
清々しい孤独である。
大正12年5月29日
「終日家に在り。風呂場を掃除す」

「後期、晩年の独居には疲れが色濃く出てきて読んでいて痛ましいが、大正から昭和にかけては、荷風は、静かに独居を楽しんでいる
荷風も若かったし、社会もまだ安定していた。
利子生活者として、高等遊民として、荷風は独居の侘しさすらも「無限の詩味」ととらえることが出来た。」(著者)

荷風は自炊もいとわなかった。
大正6年10月22日、「夜執筆の傍火鉢にて林檎を煮る」

大正6年11月30日、「この頃小蕪味ひよし。自ら料理して夕餉を食す」

大正9年1月1日、「自炊の夕餉を終りて直に寝に就く」

昭和15年5月1日、
「黄昏土州橋医院に至る。院長余が自炊の生活過労のおそれありとて頻に入院静養の必要を説く。
浅草に行かむと思ひしが院長の忠言を思起し銀座を過りてかへる。
余が下女を雇はず単独自炊の生活を営み初めしは一昨々年昭和十二年立春の日よりなれば満三年をすごせしなり」
医者に入院静養をすすめられるが、荷風はそれに従わない。
これは晩年、身体が弱っても入院せず、自分の部屋でひとり死んでいった壮絶さに通じる。

「荷風の単身者ぶりは筋金入りである。
単身者の自由勝手、気ままな放恣を楽しむかわりに、決して泣きごともいわない。」(著者)

「孤獨の清絶」をよしとしながらも同時に、女性の肌もまた恋しいという。

大正15年1月22日
「然りと雖淫慾も亦全く排除すること能はず。是亦人生樂事の一なればなり。
獨居のさびしさも棄てがたく、蓄妾の樂しみもまた容易に廃すべからず、勉学もおもしろく、放蕩も亦更に愉快なりとは、さてさて樂しみ多きに過ぎたるわが身ならずや。
蜀山人が擁書漫筆の叙に、清人石朧夫の語を引き、人生に三樂あり、一には読書、二には好色、三には飲酒、是外は落落として都て是なき処。といひしもことわりなり」

「単身者荷風は、同時に誰よりも快楽主義者である。
隠棲者のストイシズムと、金持の独身男姓の放恣な快楽主義が、荷風のなかでは自然に同居している。
「明治」のストイシズムと「江戸」のデカダンスが不思議と一体化している。」(著者)

大正9年7月27日、はじめて老眼鏡を買う。自虐的なことを書く。
「銀座松島屋にて老眼鏡を購ふ。
荷風全集ポイント活字の校正細字のため甚しく視力を費したりと覚ゆ。
余が先人の始めて老眼鏡を用ひられしも其年四十二三の時にて、余が茗渓の中学を卒業せし頃なるべし。
余は今年四十二歳なるに妻子もなく、放蕩無頼われながら浅間しきかぎりなり

中村光夫『《評論》永井荷風』(昭和54年)。
終戦後、熱海に独居する荷風に、筑摩書房の一編集者として会いにいくと、荷風はこんなことをいったという。
「戦災と流浪の旅のあいだも彼は草稿と日記の這入った鞄は手放さなかったのですが、その熱海を訪ねたとき、偶然日記帳を整理しているのにぶつかったことがあります。
そのとき、自分が日記をつけるのは、外出から帰って、ガスで湯を沸かす五分ほどの間が主だ。
長年つづいたのは、独身で見られて困るような人間がいなかったからだと云いました」
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