2011年11月2日水曜日

延暦17年(798)6月~10月 移配蝦夷の優遇(優恤・教喩)政策

東京、北の丸公園、千鳥ヶ淵(2011-10-27)
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延暦17年(798)
6月21日
・この日付の勅で、相模・武蔵・常陸・上野・下野・出雲等の諸国に対して、夷俘に時服・禄物・資粮を支給し、時節ごとに饗宴を行うことが命じられる(『類聚国史』巻190延暦17年6月己亥条)。

移配俘囚の調庸免除を定めた2ヶ月後の措置で、両者は一連の動き。
両者相まって移配蝦夷を優遇する体制ができ上がる。

夷俘を優遇する理由を、勅は、「帰望なからしめる」こととしている。
諸国に強制的に移配された夷俘たちは、故郷に帰りたいという希望を持っていたが、この「帰望」も「野心」とされ、移配先に定住させるためには「帰望」を失わせる必要があり、そのために彼らを特別に優遇することにした。

この時6ヶ国で始まった移配蝦夷に対する禄の支給はその後全国に及ぼされる。
『延喜式』には35ヶ国に俘囚料が設置されている。
俘囚料は「俘囚禄料稲」(『続日本後紀』承和14年(847)7月丁卯条)とも言われる出挙稲で、その利息が俘囚の禄や食料の財源に充てられていた。

延暦17年太政官符では、調庸免除は「蕃息」(はんそく、子孫が増えること)に至るまでとされ、弘仁2年(811)に定められた公粮支給は、子の世代までに制限されている。
しかし、貞観11年(869)でも公粮支給は続いており、調庸免除も継続されている(『日本三代実録』貞観11年12月5日戊子条・『類聚三代格』巻18同日太政官符)。
延長5年(927)に完成した『延喜式』において、俘囚料が35ヶ国に計上されていることは、彼らに対する支配が当初の思惑通りには進展しなかったことを物語っている。

延暦13年の征夷を終えた段階で、律令国家は移配蝦夷の調庸民化を楽観視しており、この年、延暦17年に方針を転換したものの、当初はあくまで暫定的な政策の変更であった。
移配蝦夷の支配にこれほどまでの手間と費用がかかるとは想定していなかったと思われる。
一方、移配蝦夷は、国家の楽観的な見通しを覆し、政策の変更を迫り、さらにはそれを永続させるほど、強固に抵抗を続けたということになる。

移配蝦夷の中には、「野心」などを理由に処罰される者がいる一方で、移配先で富裕化したり、善 澗行によって叙位されるなど、国家側に順応する蝦夷も存在していた。
自ら課役の負担を申し出た例や、播磨国印南郡権少領の浦田臣山人のように、郡司に任命された例もある(『日本後紀』弘仁3年正月乙酉条)。
しかし大多数の移配蝦夷は、社会的差別と貧困の中で、「帰望」を抱きつつ見知らぬ土地での理不尽な支配に抵抗を続けたのである。
その主な方法は、反乱と越訴であった。    

俘囚の内国移配と教化政策
蝦夷征服戦争によって発生した大量の帰服蝦夷を、俘囚として国内各地に強制移住(内国移配)させた。
移配された国は、『延喜式』に俘囚料を計上されている国を中心に45ヶ国。
俘囚の内国移配は、大量の俘囚を陸奥現地で管理・支配することの困難さと、再反乱への警戒が直接の理由で、これらの俘囚を教化を通して「野心」(粗野な心性やライフスタイル)を改めさせ、公民に同化させようとした。

政府は受領に「夷俘専当(いふせんとう)」を兼任させ、俘囚を優恤(保護し給養すること)し教喩(きようゆ、教化)する責任者とし、優恤・教喩政策を行わせた。

①男女を問わず全員に俘囚料として米・塩・燃料を支給。
これは、俘囚の生存は受領に全面的に依存することを意味する。

②「存問(そんもん)」(慰問)。受領が直接、俘囚たちの生活状態を訪ね、慰め、要望・苦情を聞き、野心を改め忠・孝・礼などの善行を励行するよう教喩した。
受領は俘囚の要望に応えたようしたが、いくら待っても要望に対応してくれない受領に怒った俘囚が、しばしば上京して政府に訴えている。

③季節ごとに俘囚たちを国衙に招待して饗宴を開き、俘囚に禄と衣服を支給。冬服は絹と布を混ぜて支給。

戦闘能力(疾駆斬撃戦術)に優れた俘囚たちは群盗海賊追捕に招募され、勇敢に戦った。
群盗海賊追捕において、おそらく受領やその子弟・従者、あるいは勇敢富豪層は、俘囚とともに戦うことによって彼らの戦術を学び取っていった。
それに伴い、蕨手刀は武芸好きの官人や勇敢富豪層の間に次第に普及していく。
こうして俘囚は、国内に騎馬個人戦術・疾駆斬撃戦術を持ち込んだ。
武士はこの戦術の忠実な継承者である。
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10月
・この年秋頃、桓武(62歳)は北野に遊猟し、その帰途に伊予親王をその山庄に訪ね、父子を中心に盛大な酒宴をはる。

その席上で、桓武は群臣を前にして、
「今朝(けさ)の朝(あさ)け鳴くちふ鹿のその声を聞かずば行かじ夜はふけぬとも」
の即興歌を披露したという。また、桓武は公卿の別業(別荘)へも気軽にでかけている。
それがかれの人心収攬の術のひとつであったのかもしれない。
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