東京、北の丸公園(2011-10-31)
*延暦21年(802)
この年
・この年、最澄は、和気広世(ひろよ)によって和気氏の氏寺である高雄山寺(後の神護寺)に招かれ、天台教学を講説(天台講会)。
和気氏は、長岡・平安遷都に大きな貢献をし、桓武の信任も篤い和気清麻呂の一族。
桓武天皇は、和気氏を通じて最澄を知り、天台教学に触れ、その興隆を目指そうとした。
桓武は早良親王の怨霊に悩まされ、皇太子安殿親王の病気も早良親王の怨霊によるものとの占いも出ており、最澄が説く天台の教えが魅力的に映ったと思われる。
当初、最澄とは別人が遣唐使に加わる予定であったが、桓武の思いは強く、最澄を入唐請益(につとうしようやく)僧(短期留学僧)として派遣することに決する。
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1月8日
・この日、征夷軍監以下、軍士以上の人々に位階や勲位が与えられる。
前日には、征夷に霊験を示した陸奥国の三つの神社に位階が与えられる(『日本紀略』)。
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1月9日
・この日、坂上田村麻呂が「造陸奥国胆沢城使」として再び陸奥国に派遣され、胆沢城(現、奥州市水沢区)を造営。
翌年には「造志波城使」として志波城(現盛岡市)を造営。
光仁天皇が初めて胆沢・志波に軍隊を送り込んだ宝亀7年(776)から4半世紀が経過している。
大同3年(808)までには、鎮守府が多賀城から胆沢城に移され、律令国家の版図は一挙に北進する。
この「征服」は田村麻呂と蝦夷勢力との政治的妥協によるもの。
鎮守府の管轄になった衣川関以北の新たな版図(奥郡)には、胆沢・江刺・和賀・稗貫(ひえぬき)・斯波(しわ)の5郡が置かれるが、統治は、俘囚首長を郡司・村長に任命し、蝦夷の支配関係を温存するもの。
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1月11日
・この日、駿河・甲斐・相模・武蔵・上総・下総・常陸・信濃・上野・下野の10ヶ国に対し、浮浪人4千人を陸奥国胆沢城に移配することを命じる。
城柵に対する移民としては最後の事例。
胆沢城造営に使役された。
胆沢城のもとには、磐井・江刺・胆沢3郡が置かれるが、江差郡には信濃・甲斐郷が、胆沢郡には下野・上総郷があり、移民の出身地がわかる。
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4月
・胆沢城の造営工事が始まる中、胆沢の蝦夷の族長阿弖流為(アテルイ)とその同志母礼(モレ)が同族500人を率い降伏。
「造陸奥国胆沢城使陸奥出羽按察使従三位坂上大宿禰田村麻呂ら言す、
「夷大墓公(たのもきみ)阿弖利(流)為、盤具公母礼(ばんぐのきみもれ)ら、種類五百余人を率いて降る」と。」
(『類聚国史』巻190延暦21年4月庚子条)
延暦8年、13年、20年の征夷戦を戦いぬいた阿弖流為であったが、多数の死傷者を出し、村落や耕地を破壊され、集団勢力を分断され、しかも胆沢城の造営工事が進むなか、降伏しか道がなかったか。
坂上田村麻呂(45歳)はこれを受け入れ、彼らに夫々、大墓公・盤具公という姓を与える。
大墓(たも)は、北上川東岸の奥州市水沢区羽田町の田茂山に由来するという。
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6月24日
・王臣家が出羽国で渡嶋蝦夷がもたらす毛皮を買い漁ることを禁止する法令が出る(延暦21年6月24日太政官符)。
国司の私的交易を禁ずる法令は、延暦6年以後出されておらず、9世紀には王臣家・富豪層の交易だけが規制の対象となる。
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7月
・この年の夏、桓武天皇は、神泉苑で藤原百川の子の緒嗣に和琴を弾かせて涙を流し、「緒嗣の父がいなければ、どうして自分は帝位につくことができたであろうか」と述べ、彼を29歳の若さで参議に抜擢した(『続日本後紀』承和十年(八四三)七月庚成条の藤原緒嗣伝)。
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7月10日
・この日、坂上田村麻呂が阿弖流為・母礼を伴って入京(『日本紀略』)。
交戦中に捕獲された蝦夷は都に送られ、戦勝の証拠として天皇に進上される原則があり、交戦後に投降した阿弖流為・母礼にもこの原則を適用し、戦勝の証拠として入京させた。
長年にわたり国家に抵抗してきた阿弖流為らが降伏したことは、桓武天皇にとっては長年にわたる征夷政策の成功をアピールするまたとない慶事であり、いかなる状況で降伏したにせよ、その身柄は必ず進上されなければならなかった。
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7月25日
・阿弖流為・母礼の入京を承けて、百官が天皇に上表して蝦夷の平定を祝賀する。
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8月13日
・坂上田村麻呂の助命にもかかわらず、阿弖流為・母礼が河内国で処刑される。
「夷大墓公阿弖利(流)為・盤具公母礼らを斬る。
この二虜は、並びに奥地の賊首なり。
二虜を斬る時、将軍ら申して云く、
「この度は願いに任せて返し入れ、その賊類を招かむ」と。
しかるに公卿執諭して云く、
「野性の獣心は、反覆定まることなし。たまたま朝威に縁りてこの梟帥を獲たり。もし申請に依りて、奥地に放還すれば、所謂虎を養ひて患を遺すなり」と。
即ち両虜を捉えて河内国杜山(もりやま、植山うえやま・椙山すぎやま)で斬る。」
(『日本紀略』延暦21年8月丁酉条)
田村麻呂は、「このたびは、二人の願いに任せて故郷に帰し、蝦夷の残党を招き寄せたい」と述べて、二人の助命を求めた。
しかし、「野性の獣の心は、いつそむくかわからない。たまたま朝廷の威光によってこの族長をとらえたのだ。もし申請の通りに奥地に放還すれば、虎を養って患いを残すようなものだ」という公卿たちの意見によって否定される。
田村麻呂が、阿弖流為の助命を求めたのは、田村麻呂自身が述べているように、未服属の蝦夷を服属させるためであり、そのことを含めて、阿弖流為の持つ権威を胆沢の支配に利用するためであろう。
しかし、莫大な犠牲を払って捉えた蝦夷の族長を生かして故郷に帰したのでは、国家の威信に関わるのであり、処刑して初めて天皇の軍事は正当化されることになる。
阿弖流為の処刑は桓武天皇自身の意向であった。
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