東京 北の丸公園 田安門ともみじ(2011-11-14)
*川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(6-1)
「五 三味線の聞える町- 築地界隈」
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「荷風にとって、東京はつねに山の手と下町という二極を持った町として意識される。
そしてつねに二極の対照によって、東京を広く、深く理解しようとする。」(川本)
「荷風は小さいころから東京の町の二面性に自覚的だった。」(川本)
随筆「井戸の水」(昭和10年)。
水道の普及は、山の手より下町のほうが早かったと思い出を語ったあと、
「むかし江戸といへば水道の通じた下町をさして言ったもので、小石川、牛込、また赤坂麻布あたりに住んでゐるものが、下町へ用たしに行く時には江戸へ行ってくると言ったさうである」
と書く。
母方の祖父母、鷲津家(祖父は江戸末の儒者、鷲津毅堂)の家が下町、下谷竹町の佐竹が原(現在の台東区台東2丁目~4丁目)にあった。
小石川の高台に住む子どもの荷風が、祖母の住む下谷の家に車(人力車)に乗って出かけていく。
随筆「下谷の家」(「三田文学」明治44年)で、荷風は、このときの町の風景の変化が子ども心にも強い印象に残ったと書いている。
小石川の永井家を出た人力車は、伝通院前から富坂を下り、「向う冨坂」と呼ばれた急坂を上がって本郷へ出る。
そこから湯島の切通しを経て、上野の広小路へ(そこには鉄道馬車が走っている)。
広小路から御徒町を抜けると佐竹が原。むかし佐竹侯の藩邸のあった跡である。
鷲津家はその一角にある。
子どもの荷風は、この小石川の高台から下谷の低地へと下る〝旅〞で、東京の町が山の上と下の二つの違った町から成り立っていることを身体で感じた筈である
(荷風は4歳のとき、1年間は祖母の家に預けられる)。
下町には江戸が残っている。
職人や芸人や町人が多く住む。
それに対して山の手は、江戸時代の武家屋敷が数多くあったところで、明治以降は、新政府の官吏や軍人の住む町になっていく。
そして東京の町は、明治以降、山の手へ、西東京へと発展していく。
「荷風は東京を、下町と山の手にわけることで、同時にそこに、江戸文化と明治文明、さらには、日本文化と西洋文化を重ね合わせた。
それによって東京の町を重層的に見る視点を獲得していった。
実際、荷風の作品は、「日和下駄」から「濹東綺譚」にいたるまで、すべて下町と山の手の両極を持った東京論になっている。
今日、東京を下町と山の手の二つにわけて考える視点は一般化しているが、この二分法を自覚的に駆使して東京の町を観察したのは荷風が最初といっていいだろう。」(川本)
成瀬正勝「荷風と『やつし』」(『明治大正文学研究』10、昭和28年5月)。
「しかしここに閑却することのできない事がある。
それは彼(荷風)が下町の子でなくて山の手の子であったことである。
下町と山の手、- それは当時にあっていまよりももっと明確な境界線を画するものであった」
日本画家鏑木清方。
若いころ(明治20年代から30年代)木挽町に住んだことがある。
清方の随筆集『明治の東京』(山田肇編、岩波文庫、1989)。
昔は、山の手と下町は違う町だったと書く。
「近頃ではだいぶ様子も変って来たけれど、昔に遡るほど、東京生れのものの間には、山の手と下町との居住者に、融和しがたい感情のじょう繍借壁が横たわっていた。
山の手生活者は下町住いのものを『町の人たち』と卑しめ、下町人は山の手の人を『のて』と嘲った」(「山の手と下町」昭和8年)
「山の手の子でありながら、下町に住むという、その二重性、矛盾を、荷風は鋭く意識した。」(川本)
「「軍人」の多い山の手は、荷風にとっていわば「野暮」の町であり、下町は「粋」の町に思えた。
荷風の言葉を借りれば「川添の下町住を風雅となした」(「隠居のこゞと」)。
山の手生まれの人間だからこそ逆に、荷風は、下町を美化し、そこに過剰に「風雅」を見ようとする。」(川本)
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この項、次に続く・・・
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