東京、江戸城東御苑(2011-10-25)
*永禄10年(1567)
この年
信長34歳、光秀40歳、秀吉32歳、家康26歳
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・今川氏真、北条氏と謀り伊豆・駿河・相模から甲斐への塩の輸送禁止。
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・黒田官兵衛(22)、父小寺職隆から家督を譲られ、主家小寺(政職)家の家老となる。
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・フランス、新教徒・陶工ベルナール・パリッシー、パリに迎えられテュイルリー宮に工房を与えられる。
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1月
・毛利元就末子秀包、誕生。
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2月
・足利義秋(後の義昭)、上杉輝虎(謙信)へ武田信玄・北条氏政と和睦し出兵することを要請。
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2月9日
・曲直瀬道三、元就父子の求めにより鑑戒(「雲陣夜話」)を書き送る。
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2月10日
・この日、上京の真如堂(現、左京区浄土寺真如町、当時は一条西洞院付近)で足利義輝追善の六斎踊。
「真如堂に於いて光源院(義輝)殿御訪のため、京辺土・摂州池田衆・坂本衆六斎の念仏大施餓鬼これあり。
十六七ケ所先づ別々念仏これを申す。
次いで各一度に又念仏これあり。
鉦鼓の衆二千八百人と云々。
貴賎男女の群衆七八万人これあるべきけつ歟の由各これを申す。
四方の土居その所なし。
先代未聞の群衆なり。」(「言継卿記」同日条)
この年10月、
同じく真如堂で安芸の国の人々が義輝の奉公衆や女房衆に扮した人形武者の仮装行列にて600人ばかりの風流踊を行う(「言継卿記」10月7日条)。
町衆は義輝を追悼する踊りによって、三好三人衆政権に抵抗を示す。
三好氏を恐れる言継にはその行動が理解できず、「如何あるべき事か、不可説々々々。好事(コウズ)無きに如かざるの儀歟」(同日条)と評す。
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2月10日
・天王寺屋道叱(津田宗及の叔父、宗麟の御用商人、豊後~堺を往復)、堺に帰る。
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2月10日
・スコットランド、女王メアリースチュワート夫ダーンリー卿、エディンバラの教会カーリ・オ・フィールドで暗殺。
対立しているメアリー秘書ボズウェル伯爵ジェイムズ・へバーン一味の仕掛けた火薬で爆死。
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2月12日
・上杉謙信、下野・佐野昌綱が再び背いたため、小山秀綱・太田資正に参陣を促し佐野昌綱の唐沢山城を攻める(唐沢山城攻め)。
15日、謙信(輝虎)、小山秀綱・宇都宮広綱に佐竹義重の参陣を要求。佐竹義重はこれに応じず、結城義親を攻め武田信玄に内通。謙信は佐竹義重と断ち、結城義親と提携し白川城救援を承諾。
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2月16日
・三好長慶の養子義継・高屋城主三好康長・安見直政、三好三人衆と不和となり堺の松永久秀と手を結ぶ。
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2月19日
・毛利元就、吉田に凱旋。
25日、内藤就藤に九州の動静を監視する命令の書状を送る。
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2月25日
・足利義秋(後の義昭)、越前一乗寺の安養寺入り(「朝倉始末記」では前年10月21日)。
信長が岐阜を押え上洛実現が近づきつつある状況に対応し急遽義秋を迎え入れる。
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3月
・織田軍(滝川一益)、北伊勢進出。員弁郡・桑名郡の地侍を降参させる。
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・武田方の真田幸隆(55)、計略により上野白井城を攻略。
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・足利義秋(後の義昭)、吉川元春へ、尼子氏撃破を祝賀。毛利元就へ、義秋帰洛援助を要請。(「吉川家文書」)
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・朝倉氏と加賀一向一揆の戦い。
越前坂井郡の有力国人堀江氏、加賀一向一揆と結び朝倉義景に謀叛。
加賀一揆勢は金津上野まで出張し、熊坂口・牛屋口・高塚で激戦。
同年冬、加賀一向衆と朝倉氏は和睦。
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3月7日
・毛利隆元に従属していた赤川元保、養子又三郎・弟源左衛門尉を誅殺。
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3月13日
・この日付け跡部勝忠宛て武田勝頼書状。
信玄の上野出陣中の留守居役として勝頼が、「駿州境目本栖・河内の用心」や「尾・三・遠の様子」を信玄に言上するよう依頼。
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3月20日
・三好三人衆、京都久我荘百姓へ年貢収納を命令(「久我家文書」)。
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3月29日
・山梨言継、北野千部経会において初めて「手くゞつ」(操り人形)を見て、巧妙さに驚嘆、「目を驚かすものなり」(「言継卿記」同日条)と書く。
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4月
・春、備中の三村元親、備前に侵入。
宇喜多直家属城明禅寺城落城。
直家、明禅寺城を奪回。兵5千で、猿掛城主穂田元祐7千の先手、幸山城石川久智5千の中軍、三村元親の本隊を粉砕。
元親、退却。
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・ブリュッセル政府マルゲリータとホールネ、エフモントの妥協策。
ヴァランシェンヌ陥落。ヤン・ファン・マルニクス軍壊滅、ギ・ド・ブレ極刑。*
・オランイェ公子フィリップス=ウィレム誘拐及びオランイェ家財産没収。
ウィレム、ブレーデローデ ディレンブルクへ亡命。
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4月6日
・厩橋城将北条高広、北条氏康に応じて謀反。
上杉謙信(38)、沼田城将松本景繁・小中大蔵少輔・新発田右衛門大夫に高広討伐を命ずる。
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4月6日
・松永久秀(58)、三好長慶養子後継者義継を擁し堺から大和信貴山城に戻る。
7日、筒井順慶、奈良の陣を払う。多聞山衆は奈良を出陣、五本松に陣を置く。
11日、久秀・義継、信貴山城から多聞山城へ移る。
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4月18日
・三好三人衆1万、奈良入り。大和奈良近辺に布陣し、南都対陣が始まる。
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4月18日
・北條氏政、簗田晴助・持助と盟約を結ぶ。
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4月24日
・三好三人衆・筒井順慶、大和天満山・大乗院山に布陣。
松永久秀、興福寺大乗院・東大寺南大門、布陣。
東大寺塔・南大門に上がり「鉄砲」を放ち、昼夜分かたず「雷電の如き」銃撃戦となる。
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