2011年11月22日火曜日

弘仁2年(811)4月~5月 弘仁2年の征夷の勅 「国の安危、この一挙に在り」 坂上田村麻呂(54歳)没す

東京 江戸城東御苑(2011-11-15)
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弘仁2年(811)
4月17日
・陸奥出羽按察使文室綿麻呂が征夷将軍に、出羽守大伴今人・鎮守将軍佐伯耳麻呂・陸奥介坂上鷹養が副将軍に任じられる(『日本後紀』)。
現地官人を征討使に任ずる事は、桓武朝第2次征討以来の先例どおりであるが、綿麻呂はこの頃は陸奥にあり、京に帰って節刀を受け取った形跡がない。
つまり弘仁2年の征夷では、節刀の授与は行われていないと考えられる。
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4月19日
・嵯峨天皇、勅を発す。
「征夷将軍らに勅して日く、「夷狄紀(のり)を干(おか)し、日を為すこと巳(すで)に久し。征伐を加ふと雖も、末だ誅鋤(ちゆうじよ)を尽くさず。今、来請に依りて、将(まさ)に兵を出さむとす。その軍監(ぐんげん)・軍曹等は、且つは簡用し、且つは奏上せよ。但し軍法を犯さば、身を禁じて裁を請へ。隊長己下は、法に依りて決断せよ。国の安危、この一挙に在り。将軍これを勉めよ」と。」(『日本後紀』弘仁2年4月壬午条)

今回の征夷は、天皇の発案ではなく、現地官人の「来請」によって行われることが明確に示されている
軍法を犯す者への処罰を命じている個所では刑罰権の制限が見てとれる。

『儀式』巻10の将軍に節刀を賜う儀や延暦7年(788)12月の征東大使紀古佐美への節刀授与では、副将軍については身を禁じて奏上し、軍監以下は直ちに斬刑に処せよと命じている。
しかし、ここでは軍監・軍曹については身を禁じて裁を請い、隊長(兵50人の長)以下を直ちに処罰するよう命じている。

また、紀古佐美への節刀授与に際して桓武天皇が述べた「坂東の安危、この一挙に在り」には、「国の安危、この一挙に在り」が対応しているが、「坂東の安危」が「国の安危」に変化している。「国」は陸奥国のことで、征夷という国家的な課題が、陸奥国という一地域の問題として扱われていることを示している。

4月19日の勅は、その内容からみて、本来ならば天皇が内裏で将軍に節刀を授与する際に発すべき勅語である。
今回の征夷では節刀の授与が省略されているため、将軍任命の2日後に、文書の形で陸奥国に伝達されたと推測される。
その内容も桓武朝と明らかに異なっていて、将軍の権限や征夷の影響が及ぶ範囲を限定しており、徳政相論で示された征夷中止の方針に沿っていると言える。

弘仁2年の文室綿麻呂の征夷は、桓武朝での徳政相論による征夷中止の方針に沿って行われた「征夷終結のための征夷」とされる。

桓武朝までの征夷と異なる点。

①征夷に必要な軍士・物資などは東国に負担させず、一切が陸奥・出羽国内から徴発された。
②征夷将軍が任命されたが節刀授与がなかった。
③征夷を発議したのは文室綿麻呂ら現地官人で、嵯峨天皇はどちらかと言えば征夷に消極的であった。

征夷は、もはや国家的課題ではなく、陸奥・出羽という地域の課題として実施された。

この征夷によって、陸奥・出羽の軍事的緊張が大幅に緩和され、宝亀5年(774)の桃生城攻撃事件に始まる38年戦争を終わらせたという点でも、その歴史的意義は大きい。

弘仁2年の征夷に関する『日本後紀』の記事は完存しているが、その経過には不明な点が多い。
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5月
・文屋綿麻呂らは、5月までに1万9,500余人を徴兵(同五月壬子条)。
天皇が求めた2万6千人よりは少ない(陸奥・出羽両国ではこれが精一杯であったか)。

弘仁2年の征夷では、陸奥・出羽からの軍士徴発が困難を極める中で、俘軍が重要な役割を果たしている。
大伴今人による俘軍を用いた奇襲作戦は、爾薩体村の蝦夷に大きな被害を与えたようで、これ以後の記事では、専ら弊伊村が征討の対象として見えている。
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5月10日
・嵯峨天皇は、征夷将軍文室綿麻呂に対して、「塞下の俘」(城柵の管轄下にある蝦夷)の数が多く、軍を出した後に「野心」を生ずるかもしれないので、将軍らは努めて彼らをなだめて落ち着かせ、騒擾を起こさせないようにせよと命じる(『日本後紀』)。

これは2月5日の奏状で、綿麻呂らが征夷の実施を「六月上旬」と申告していたことから、軍を出す前に足元の蝦夷をよく教え諭すように指示したのであろう。
綿麻呂は同日の奏状で、糒・塩・器仗の準備はすでに整っているとも述べているので、天皇は予定通り征夷が行われると考えていたとみられる。
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5月12日
・この日、綿麻呂が、軍士の食料や雑物を国司に命じて準備していること、軍事用の幕も製作中であること、出羽守大伴今人が出羽国内を巡行して軍士を徴発していることを報告してくる。
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5月19日
・嵯峨天皇、この日の勅で、前後の奏状の矛盾を厳しく指摘し、今年は国家(天皇)の忌(いみ)と大歳(木星)がともに東方にあって、東方での兵事は避けるべきであるから、今年は征夷の準備に専念し、来年の六月まで征夷を延期するように指示(『日本後紀』弘仁2年5月壬子条)。

軍士・軍粮・軍需物資の準備が遅れているのは、東国の支援がないために、それらをすべて陸奥・出羽両国から徴発する必要があったためと推測される。

この勅で、天皇は1年の征夷延期を提示。
光仁・桓武朝の征夷では、将軍らが軍粮や物資の不足を理由に進軍しないことがあり、しばしば天皇の譴責を受けているが、嵯峨朝では逆に天皇が征夷の延期を求めている。
現地官人の申請によって始まったこととは言え、天皇が征夷の実施に積極的ではなかったことが窺える。

この勅で、嵯峨天皇は、綿麻呂らが定めた軍監・軍曹の数が多すぎると指摘し、その是正を求めている。
延暦13年(794)の征夷では、征軍10万に対し軍監16人・軍曹58人、延暦20年の征夷では、征軍40万に対して軍監5人・軍曹32人であったのに、今将軍らが定めた軍監・軍曹は、征軍1万9,500余人に対して正任47人・権用(ごんよう、仮に任用すること)15人の計62人で余りに多い。
戦いに堪えうる者を精選して、軍監10人・軍曹20人に半減するよう命じる。

軍監・軍曹の増大は延暦13年以降の征夷にみられる特徴であり、その目的は軍毅・郡司・郡司子弟などを軍監・軍曹に任用することによって、征討使という一つの官制体系の中に位置づけ、指揮系統を明確化することにあったと考えられている。
4月19日の勅によれば、その任用は征夷将軍の裁量権であり、天皇には事後報告すればよかったが、さすがに多すぎ、是正を要求された。軍士の徴発が難航する中で、征夷軍に参加する豪族に少しでも高い地位を与えようとする綿麻呂の配慮があったのであろう。
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5月23日
・大納言・正三位・兼右近衛大将・兵部卿の坂上田村麻呂(54歳)、栗田の別業(別荘)没。
嵯峨天皇は従二位を追贈して生前の功をねざらい、10月17日には山城国宇治郡の地3町を故大納言坂上田村麻呂の墓地として与える(『日本後紀』)。
現在、山科盆地中央の京都市山科区勧修寺東栗栖野町に坂上田村麻呂墓があるが、これは近世に考証され、平安遷都1100年の明治28年に整備されたもの。
しかし最近になって、山科盆地西部の山の斜面に、本物の坂上田村麻呂墓が存在するという事実が明らかにされた。
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