2011年11月21日月曜日

弘仁2年(811)1月~3月 文屋綿麻呂ら、征夷(爾薩体村・弊伊村征討)実施を申請

東京 江戸城東御苑(2011-11-15)
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弘仁2年(811)
・桓武天皇の第3子の葛原親王、この年、上野国利根郡長野牧(ながのまき)を、また、承仁2年(835)には甲斐国巨麻郡馬相野(まみの)の空閑地500町を下賜される。
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大伴今人(おおとものいまんど)と伴渠
この年以降のこと、大伴今人が備□(不明)守であったとき、掾の河原広法(かわはらのひろのり)とともに、山を穿(うが)ち磐(いわ)を破って、大渠すなわち大規模な潅漑用の水路を拓いた。
農民をその労役につかせた。はじめ地方人はこれを無謀の挙として非難。
しかし、事業が終ると、地域の人々は大きな利益をうけ、伴渠の名によってその偉業を讃える。
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1月15日
・陸奥国に和我(わが、和賀)・薭縫(ひえぬい、稗貫)・斯波(志波)の3郡が置かれる(『日本後紀』)。
この3郡は、志波城を拠点として置かれた最北の郡で、その安定化を図るため、北と東に接する爾薩体村と弊伊村を征討することが計画されたと推定されている。
現地官人が征夷の実施を申請したのは、宝亀7年(776)2月に、陸奥国が「山海二道の賊」を伐つことを申請して以来のこと。
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1月17日
・この日、平安宮の豊楽院(ぶらくいん)で嵯峨天皇の出御のもとに射礼(じやらい)が行われる。
行事終了後、嵯峨天皇が、葛井(ふじい、異母弟、12歳)親王に、からかい半分に弓矢を執るよう命じる。葛井親王は桓武天皇と坂上春子(田村麻呂の娘)の間に生まれた子である。
葛井親王の放った矢は、2度とも的を射抜いた。

外祖父の田村麻呂は、座から飛び上がって喜び、親王を抱き上げて舞い、天皇に進み寄って、「私はかつて数十万の軍を率いて東夷を征討しましたが、天皇のご威光を頼みとして、向かうところ敵なしでした。しかし勇気と計略と兵術には、まだ究めていないところが多々あります。今、親王は幼いのに、たいそう立派な武術をお持ちでいらっしゃいます。とても私などの及ぶところではございません」と述べた。嵯峨天皇は笑って、「それは将軍、あまりにも外孫を誉めすぎであろう」と言ったという(『日本文徳天皇実録』嘉祥3年(850)4月己酉条の葛井親王伝)。

「怒りて眼を廻らせば、猛獣も忽ち斃(たお)れ、咲(わら)ひて眉を舒(ゆる)めれば、稚子(おさなご)も早(すみや)かに懐(なつ)く」という『田邑(たむら)伝記』(10~11世紀の成立とみられる田村麻呂の伝記)の記述を思わせる、武力とともに人間味に満ちた田村麻呂の人柄をよく示す逸話とされる。
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2月
郡司任命方法の変更。譜第者任用を復活
それまで複数の候補者を必要とした任命方式から、国司の推薦がそのまま認められる方式に変わる。

職員令によれば、郡司には任期がなく(終身官)、大領・少領・主政・主帳から構成され、国司の下で郡内の政務を行うことになっている(一般の官人には任期が設けられている)。
郡司には、大化前代の国造など、古くからの地方豪族が任命されていたから(選叙令)である。
従って、当初、日本古代では、郡司が実質的な税の徴収、出挙、勧農、労働力の徴発などを担い、国司は、郡司の手を通して間接的に在地を統治・運営しているに過ぎながった。

しかし、平安時代には、郡司の任命の仕方が大きく変化。
郡司を任命する際には、国司は複数の候補者を引き連れて都に上り、式部省で試験(試練)を受けた上で、天皇や議政官の出席のもと、任命式が行われることになっていた。
郡司の位は、高くても五位(一般的には六位以下)であったことからすれば、天皇が任命の儀式に出席することは異例である。
国家にとって郡司を統治することが重要であったということである。
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2月5日
陸奥出羽按察使文屋綿麻呂ら、征夷の実施を嵯峨天皇に申請

陸奥出羽按察使文室綿麻呂・陸奥守佐伯清岑(きよみね)・陸奥介坂上鷹養(たかかい、田村麻呂の弟)・鎮守将軍佐伯耳麻呂(みみまろ)・鎮守副将軍物部匝瑳(もののべのそうさ)足継らは、来る6月上旬に、陸奥・出羽両国の軍士2万6千人を徴発して、爾薩体(にさつたい)村と弊伊(へい)村を征討したいと申請(『日本後紀』弘仁2年3月甲寅条・5月壬子条)。

爾薩体村(弐薩体村)は、現在の岩手県二戸市に仁左平(にさつたい)の地名があることから、後の二戸郡を中心とする地域と推定される。ニサッタイとは、アイヌ語で「森」を意味する「タイ」で結ぶ地名の一つと考えられている。

弊伊村(幣伊村・閉伊村)は、岩手県東部の宮古市・上閉伊郡・下閉伊郡などにあたる地域である。
奈良時代の初めに「閇村」として登場し、当地の蝦夷が三陸海岸特産の昆布を陸奥国府に貢納していた(『続日本紀』宝亀元年10月丁丑条)。
しかしその後国家から離反したらしく、ここでは爾薩体村とともに征討の対象とされた。
坂上田村麻呂も、延暦20年(801)の征夷で「閉伊村」を攻めたことがあり(『日本後紀』弘仁2年12月甲戌条)、今回の征討はそれに続くもの。
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2月14日
・最澄、空海に宛てた手紙で受法を願う。
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3月
・この月、「俘囚計帳」の作成が始まる(『日本後紀』)。
俘囚の調庸民化の進展を示すものではなく、俘囚を通常の計帳から外し、公民とは別個の支配を行うための措置とみられる。
俘囚計帳は、禄や食料・衣服などの給付のための台帳として、あるいは夷俘防人制のように一般公民とは別の負担を課すための台帳として利用されたとみられる。
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