東京、江戸城東御苑(2011-10-26)
*延暦18年(799)
この年
・この年から、問民苦使(もみくし)を地方に送り地方民の陳情を受け付けさせ、国・郡司の行政状況などを調査させる。
予想通り、国司の乱脈ぶりは目を覆うばかり。
禁制を無視して農業経営に力を傾ける者があまりに多く、営田3町以下や、兵士を駆使している国司の犯状は、敢えて見逃すことにする。
*
・この年、諸氏に本系帳(氏ごとの系譜の記録)を提出させ、『新撰姓氏録(しようじろく)』編纂が始まる。弘仁6年(815)に完成。
京・畿内に本貫(本籍)を持つ1,182の氏を、祖の系譜上の位置に応じて皇別(神武以来の天皇家から分かれた氏族)、神別(藤原氏などのように天神地祗の子孫とされる氏族)、諸蕃(渡来系の氏族)の3種に分類し、夫々の出自伝承や系譜を書き連ねたもの。
この時期に系譜伝承を改めて確定する必要があったと推測できる。
桓武自身の母方は、下級官人層で百済系渡来人の出であるが、天皇の系譜は父系で確定することとした。
桓武は、父系のみによって諸氏の系譜を類別することを望んだと思われる。
*
1月
・この時点でも儀式を行う上で欠かせない豊楽院は未完成。
大極殿の前に仮殿を造って、来日した渤海使に饗宴を催す。
大同3(808)年2月の記事に「豊楽院」が見え、それまでには完成している。
*
4月13日
・この日、西海道以外の諸国の烽候(とぶひ)を廃止。
*
12月
・この月、平安宮を造るため、伊賀・伊勢・尾張・近江・美濃・若狭・丹波・但馬・播磨・備前・紀伊などから役夫を差しださせる。
*
*
延暦19年(800)
この年
・この年、筑前国宗像郡の大領(だいりよう、郡司のうち、最上席者)と宗像社神主の兼帯を止める。
*
7月
・桓武の神泉苑行幸の初見
*
・皇太子安殿(あて)の心身の不調が気がかりな桓武天皇は、故早良(さわら)親王に崇道(すどう)天皇の号を追贈、故井上内親王も皇后に復する処置をとる。
早良に天皇号を贈り、井上を皇后に復したのは、ともに怨霊を鎮めるためとされた。
皇太子安殿と、元来は皇太子妃の母であった種継の娘薬子との桓武にとっては許し難い関係も、怨霊と結びつけないではいられなかったろう。
*
10月28日
・桓武朝第3次征討に向け、征夷副将軍(人名不明)を任じる。
既に延暦16年11月には、坂上田村麻呂が征夷大将軍に任じられている。
*
11月6日
・征夷大将軍坂上田村麻呂、諸国に派遣され、移配蝦夷の実態調査を行う(『類聚国史』巻190延暦19年11月庚子条)。
第2次征討で移配した蝦夷の抵抗が激しくなってきたこと(同延暦19年5月己未条)と、第3次征討に伴って新たに多数の蝦夷を移配する計画があったことから、事前に実態調査が行われたのであろう。
*
12月
・隼人の居住地たる薩摩・大隅両国において全面的な班田収授を実施(『類聚国史』巻159)。
翌年、朝貢停止令を出し、延暦24年(805)に隼人の朝貢が終わる(『類聚国史』巻190)。
隼人は、大宝初年における大規模な反乱、和銅年間の反乱、養老年間の最後の反乱の後、中央政府に対して反抗的な姿勢をとっていない。
隼人の一部は畿内に移住させられ、残りは薩摩・大隅地方に居住しつつ、6年交替で朝貢隼人が朝廷に出仕させられてきた。
この年の班田を最後に全国一斉に実施する方針は廃止され、班田は国司に全面的に委任される。
やがて国司は班田をしなくなり、班田制の本来の目的であった経営保障機能・階層分化抑制機能は失われ、有力農民による田地集積を容易にしていった。
これらの規制緩和政策による階層分化のなかから、
①土着国司子弟・郡司・有力農民らは私出挙による債務関係を通じて窮乏公民から口分田(くぶんでん)・墾田(こんでん)を集積し、
②彼ら(窮乏公民)と私的隷属関係を形成し、大規模な私営田経営を展開する富豪層へ成長していく。
国衛は、富豪層による貧窮農民の搾取はほしいままにさせておいて、このような富豪層を課税対象としていく。
*
*
0 件のコメント:
コメントを投稿