東京 江戸城東御苑(2011-11-22)
*川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(9)
「八 「余花卉を愛する事人に超えたり」 - 庭の小宇宙」
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「庚申の年孟夏居を麻布に移す。
ペンキ塗の二階家なり。
因って偏奇館と名づく。
内に障子襖なく代ふるに扉を以てし窓に雨戸を用ひず硝子を張り床に畳を敷かず榻を置く。
朝に簾を捲くに及ばず夜に戸を閉ずの煩なし。
冬来るも経師屋を呼ばず大掃除となるも亦畳屋に用なからん。
偏奇館甚獨居に便なり」(随筆「偏奇館漫録」(大正9~10年))
「余花卉を愛する事人に超えたり。
病中猶年々草花を種まき日々水を灌ぐ事を懈(おこた)らざりき」(随筆「偏奇館漫録」)
大正9年6月2日。
「苗売門外を過ぐ。
夕顔糸瓜紅蜀葵の苗を購ふ。
偏奇館西南に向ひたる崖上に立ちたれば、秋になりて夕陽甚しかるべきを慮り、夕顔棚を架せむと思ふなり」
西日を防ぐ棚を作ろうと夕顔、糸瓜、紅萄葵(モミジアオイ)の苗を買う。
9月23日
植木屋に頼んでプランタン(プラタナス)3株、窓前に植える。
このプランタンは順調に成長し、昭和3年6月18日には、「木陰の窓あまりに暗ければ朝の中より庭に出でプランタンの枝を伐る」とある。
苗売りから夕顔や糸瓜の苗を買ったあと、さらに、6月18日、
「虎の門を歩み花屋にて薔薇一本を購ふ」。
11月10日
「虎の門金毘羅の縁日なり。草花を購ふ」。
「菊を植ゆ」(大正9年10月16日)、
「窓外山茶花満開」(11月2日)、
「チユリップ球根を花壇に埋む」(11月17日)、
「庭に福寿草を植ゆ」(12月28日)、
「雁来紅の種をまき、菊の根分をなす」(大正10年3月23日)、
「瑞香(*沈丁花)の花満開なり」(3月30日)、
「雨の晴れ間に庭の雑草を除く」(6月26日)、
「松葉牡丹始めて花さく」(7月2日)、
「午後庭のどうだん、かなめ杯の刈込みをなす」(大正14年5月23日)、
「昨日のごとく庭に出で花壇を耕し、肥料を施す」(11月8日)、
「午後庭を掃ふ。瑞香の花将に開かむとす」(大正15年3月2日)、
「午後庭に出でゝ草花の種を蒔く」(4月12日)、
「小園の新緑甚佳し。躑躅花落ちて芍薬ひらく」(5月8日)
・・・
「断腸亭」は、断腸花(秋海棠)にからとられている。
かつて大久保余丁町の父の家では、夏に秋海業が小さな赤い花をつけた。そこから荷風は自らの書斎を「断腸亭」と名づけた。
しかし、麻布に引越してからは、胡蝶花はあっても秋海棠には恵まれない。
大正15年9月26日
日頃から欲しいと思っていた秋海棠が手に入る。喜んで庭に植える。
「秋海棠植え終りて水を灌(そそ)ぎ、手を洗ひ、いつぞや松莚子より贈られし宇治の新茶を、朱泥の急須に煮、羊羹をきりて菓子鉢にもりなどするに、早くも蛼(こほろぎ)の鳴音、今方植えたる秋海棠の葉かげに聞え出しぬ。
かくの如き詩味ある生涯は蓋しさかな鰥居(かんきよ)の人にあらねば知り難きものなるべし」
この秋海棠は、翌年の初夏に芽を出す。
昭和2年5月11日
「去年の秋清潭子より貰ひたる秋海棠悉く芽を出したり、今年の秋には久しぶりにて断腸花の色を愛づることを得べし」
昭和5年夏
秋海棠の花が例年より12輪早く開いたときには、父の作った秋海棠を読んだ漢詩の掛け軸を客間に掛ける(昭和5年7月1日)。
秋海棠を通して、漢詩人でもあった父の文人趣味を偲ぶ。
随筆「枇杷の花」(昭和10年)
庭に花がなくなった寒い季節に、忘れられたようにひっそりと花をつける。
「見栄えのしない花」へのを思い入れを書く。
日かげの花に心ひかれる荷風らしい。
秋海棠も日かげを好む花。
野草にも目をとめる。
昭和7年9月29日
知人からもらった龍膽(りんどう)を写生して日記に添える。
昭和10年6月3日
西光寺墓地の生垣に咲いていた忍冬(ニンドウ、スイカズラ)の花を写生し日記に添える。
沈丁花も荷風が愛した花のひとつ。
「余の沈丁花を愛するは、曽て先考大久保の村園に多くこの花を植ゑ其書齋を小丁香館とよびたまひし事を思ひ出すがためなり」(昭和9年4月12日)。
父が愛した沈丁花を自分も愛することで、亡き父のことを思い出す。
大正9年に偏奇館に移居の際には、世田谷から種苗師を呼び、庭に沈丁花2、30株を植えている。
大正10年3月30日
「瑞香の花満開なり。夜外より帰来つて門を開くや、香風脉々として面を撲つ。
俗塵を一洗し得たるの思あり」
昭和10年3月3日
夜、銀座で食事をして偏奇館に戻ると、「沈丁花馥郁人の面を撲つ」。
思わず沈丁花の句を三句作る。
「春寒き闇の小庭や沈丁花」
「春寒き門に匂ふや沈丁花」
「沈丁花環堵(かんと)粛然として春寒し」
昭和16年6月1日
あじさい(西洋あじさい)を賞でる。
「西洋紫陽花コバルト色に染り出しぬ。
この花もと日本の紫陽花を佛蘭西の土に移植ゑしなりと云ふ。
花の色その葉の色ともに淡くやはらかなり。
三年前或人鉢植の一株を贈りくれしなり。
庭におろして既に年を経たれば花の色も今年あたりは日本在来のものに化し終るならむと思ひしに、始めて見し時のうつくしさを保ちたり。
わが思想とわが藝術も願くばこの佛蘭西あじさゐの如くなれかし」
あじさいへの想いと同時にフランスへの変らぬ憧憬を述べる。
「日本の紫陽花」:ガクアジサイのこと。
大正11年4月21日
2年前に隣の家の垣根際に茂っていた胡蝶花(シャガ)を偏奇館に移しかえる。
「庭の片隅に胡蝶花のひらくを見る。
一昨年移居の際鄰園のシャガ垣際に匐ひ出で生茂りたるを採り、日当りよきところに移し栽えしに、いよいよ繁茂し多く花をつけたり。
此の草余の生れたる小石川金冨町の庭、または崖にも茂りたり。
大久保の家の庭には鶯草ありしが、此花を見ざりし故、築地庭後庵の茶室のほとりに繁りたるを請ひ受け、移植えむと思ひしこともありしなり。
麻布の家のあたりには石垣の間竹薮の中などにシャガの茂りたる処多し。
地勢小石川に似たるが故ならむか」
大正12年11月11日
散歩の途中、道源寺で寒竹が打ち捨てられているのを見て、人足に頼んでそれを偏奇館に移し植える。
「吾家の門前より崖つたひに谷町に至る阪上に道源寺といふ浄土宗の小寺あり。
朝谷町に煙草買ひに行く時、寺僧人足を雇ひ墓地の石垣の崩れたるを修復せしめ居たり。
石垣の上には寒竹猗々として繁茂せるを、惜し気なく掘捨て地ならしをなす。
予通りかゞりに之を見、住職に請ひ人足には銭を輿へて、其一叢を我庭に移し植えさせたり。
寒竹は立冬の頃筍を生ずるものにて、其の頃に植れば枯れざる由。
曾て種樹家より聞きし事あり」
大正15年10月2日
「西郊の秋色を見むとて、午後電車にて玉川双子の渡に抵(いた)り、杖履逍遥(じようちしようよう)、世田ケ谷村に、葵山子を訪ふ。
相携へて駒場農科大学の園林を歩む。
・・・予去秋、草木の名称を知らむとて、再三筇(つえ)を曳きたりし園林を尋るに、既に其跡だになし」
「草木の名称」を学ぶために「駒場農科大学の園林」を訪ねている。
植木の値段。
大正13年9月18日
世田谷の植政という植木屋に行き、青木を数株注文し、主人から震災後植木が値上りしているという話を聞いて、この日買った植木、さんご樹、青木、むべの値段を細かく記している。
偏奇館の大きな椎の木。
大正9年、移り住んだときにはすでに老い、虫がついて弱っていた。それをワラで幹を包み、幹の穴に薬液をそそいで手入れをした。その丹精の甲斐あって、椎の木は年々元気になり、昭和3年5月には、再び花をつける。
5月31日
「晴れて暑し、窓外に繁りたる椎の老樹今年始めて花をつけたり、・・・」
6月9日
「晴れわたりて風さはやかなり、椎の花咲く薫り書窓に満つ、物の黴びるが如き匂なり、されば揺水の臭気に似たりとも云はるゝ由なり、余は椎の花咲く香気をかぐ時は何となく人跡絶えたる山間の幽逕を歩むが如き心地す、夏の花にて余の好むもの椎の花と紫陽花にまさるはなし、・・・」
「偏奇館の荷風が、秋海棠、枇杷、椎、紫陽花といった日本的な花、それもどちらかといえば目立たない地味な花を愛したことは、彼なりの反時代的趣味、頑固さのあらわれだろう。」(川本)
昭和3年5月30日
「快晴、緑蔭清風愛すべし、午後樹下に椅子を移して鴎外全集ギヨオテ伝を読む」
昭和18年6月17日
「晴。午後落葉を焚き藪蚊を追ひつゝ茂りし椎の木蔭に椅子を持出で読書の後ふと興の動くがまゝ手帳に小説の筋書をしるす。
此日蒸暑甚しく机に向ひ難し。
椎の木蔭は日を遮り涼風絶えず崖の竹林に鳥の声しづかなり」
「世を離れた荷風にとっては、偏奇館の庭は小宇宙である。
庭は、隠れ場所であり、世を避けようとする文人の小さなユートピアである。
このとき、「断腸亭日乗」とは〝庭の文学″でもあったことに思いあたる。
「庭」は、荷風にとって、社会や国家と鋭く対立する特権的場所である。
それを私小説的空間だと矮小化したり、隠居趣味だと批判するのは当らない。
荷風は、大逆事件を見ている文士であり、自身、強権によって「ふらんす物語」を発禁されたことのある人間である。
国家権力の強大さを知る荷風であればこそ、庭という小宇宙は、小さな、しかし、絶対に譲ることの出来ない場所になったのである。」(川本)
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