2011年11月24日木曜日

永禄11年(1568)4月~6月 信長の上洛準備 オランダ独立戦争始まる [信長35歳]

東京 江戸城東御苑(2011-11-22)
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永禄11年(1568)
4月
・足利義昭から信長に京都出兵促す内書
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・信長、岐阜城帰還。
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・越前敦賀湊の川舟座、敦賀郡司下代の三段崎・上田の両氏に下浦入買禁止を解かれるよう訴え。
川舟座は、気比社社家に毎年升米銭3貫500文を納め、造営には舟公事を奉仕し、また屋形(義景)御用として御犬(犬追物)の馬場の砂を三国まで運び、自国・他国の御用に召し使われたいとする。
12月、両下代より、川舟座の諸浦入買停止解禁の訴えを前郡司景紀より義景へ上申、川舟座の諸浦入買を解禁するよう指示があったと通達。
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4月15日
足利義秋、元服し義昭と改名。朝倉義景の一乗谷館。京都から関白二条晴良が列席。
義昭は、光秀が信長に仕え義昭上洛のために働いている間にも、上杉輝虎などに御内書を下して来援を求める。
坂本の大商人香取が、義昭の装束の調達にあたる(「言継卿記」同年4月4~10日条)。
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4月17日
・山科言継、近江坂本の山王祭礼にゆく(「言継卿記」同日条)。
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4月27日
・信長、佐治為次へ近江蒲生郡内に知行安堵。
永原重康(六角氏家臣、甲賀豪士)へ全3ヶ条の条書を下す(密約)。

信長の上洛準備
この年2月~7月、上杉輝虎と入魂。
4月7日、和田惟政を使者に近江甲賀郡土豪たちと連絡。
27日、永原越前守と密約。
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4月29日
・京都山科郷民と醍醐郷民が闘争(「言継卿記」)。
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4月29日
・三好長逸、上洛。
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4月30日
・足利義昭、京都相国寺応徳軒に寺領安堵(「光源院文書」)。
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4月下旬
・信長妹お市御料人、浅井長政に輿入れ。
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5月
吉川元春、伊予平定
元春、大洲城を陥落。豊綱降服。
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・フランス、(時期不詳)「サン・モールの国王声明」。
カトリーヌ・ド・メディシスが準備。「譲歩と寛容の時代」が終了、徹底した「戦いの時代」が開始。
王がこれまでユグノーにした「譲歩」に遺憾の意を表明
(譲歩は謀反に対していかなる鎮静効果もない)。
王は全ての要塞都市の返還を要求
(ラ・ロシェル、モントーバン、南フランスやドーフィネ地方の「要塞都市」)。
ユグノー「閣僚」の2週間以内にフランスよりの退去を命じる。
カトリック以外の宗教の礼拝は全面禁止(違反者は「財産没収」、「身柄を拘束」)。
1週間以内に武器を放棄すれば、いかなるユグノーもこれを許し、信教の自由を保障。
「声明」に引き続いて、ユグノー 派「法曹」や「財務官寮」の罷免、「教会財産」・「聖職禄」の没収。
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5月7日
・上杉謙信の生母・虎御前(57)、没。
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5月16日
・ラングサイドの闘い。
メアリー・ステュアート(25)、スコットランドの幽閉地(ロッホリーヴン城)を脱出。ダンバートン城を拠点に軍勢6千で、ラングサイトの丘に押し寄せる国王軍(新国王ジェイムズ6世摂政マリ伯(メアリー異母兄))を迎え撃ち敗北、イングランドに逃れる。18年間、国内を転々とし2度のエリザベス女王廃位陰謀に荷担。1587年2月8日、処刑(44歳)。
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5月17日
・朝倉義景、朝倉館に義昭の御成り(訪問)を迎ぎ、義昭を将軍になぞらえて盛大な宴を催す。

午刻、義昭は朝倉館を訪問、まず主殿で式三献(献盃の儀)。
義景は慣習にのっとり白太刀・馬・弓・矢・鎧を進上。
その後、義昭らは常御殿へ移り盛大な宴会。盃が重ねられ進物が献上される。進上物の種類は太刀・馬・唐物の香合・盆など故実に従ったもの。13献目は金銀100両を盆にすえて進上、15献目は三尺余の沈香の榾を2人で持って進上。3献の後、景鏡以下同名衆達が義昭に太刀・馬を進上、4献の後には能が始る。

10献目が済むと義昭は別室で休息、その間に義昭の御供衆・御部屋衆・御走衆・詰衆らに食事が振舞われる。

11献と13献の後には義昭臣に対して「御通り」(1人ずつ主人から盃を戴き飲んでは引き下がる)がなされ、15献の後に朝倉氏同名衆にも「御通り」がなされ、最後の17献の後は前波景当・魚住景固以下の朝倉氏年寄衆が義昭に太刀・馬を進上して礼を述べる。

宴たけなわのころ舞となる。義景は義昭の盃を受け、最後に仁木義将の「御通り」がすぎて「御銚子アガリ」となり、すべての酒宴が終了(「越州軍記」、「朝倉義景亭御成記」)。
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5月23日
オランダ独立戦争(80年戦争)開始
28日、アルバ公、ウィレム公や反スペインの貴族の財産を没収。
オラニエ公ウィレム弟のルートヴィッヒ・フォン・ナッサウが北部のフローニンゲン州に侵入、勝利。
アルバ公はルートヴィッヒを迎え撃つために出陣。この戦いはアルバ公の圧勝、ルートヴィッヒはフローニンゲンから撤退。この年秋、オラニエ公自らが中部のブラバントに進攻を試みるが完全に失敗。    
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5月24日
・フランス、大法官(国璽尚書)ミシェル・ド・ロピタル、解任(1560年から8年間、新旧両派の融合をはかる)。
カトリーヌ、教皇ピウス5世より援助を受ける際に次の条件を承諾
(ローマ教会のフランス教会に対する天引き権。援助金は異端撲滅に用いる。)。

ミシェル・ド・ロピタル、協定を挑発と見なし上記の協定への署名拒否。
ユグノーへの肩入れと同じであり罷免。
カトリーヌの均衡政策くずれ、ギーズ一門の権威が高まる。
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5月28 日
・トスカナ大公コジモ愛人カーミラ・デ・マルテッリ、コジモの子を産む。
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6月
・吉川元春・小早川隆景、九州へ発向。
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・武田信玄、息女菊の方を信長嫡男奇妙丸と婚約させる。
使者秋山信友、信長へ派遣。
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・小田切孫七郎(上杉輝虎家臣)、武田信玄の調略により謀叛。
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・この頃、信長、越前一乗谷(朝倉義景)にいる足利義昭に、上洛準備ができたので岐阜に移ってくれるよう願出る。
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・信長、近江蘆浦観音寺へ、蘆浦3郷の「欠所方」・「給人はつれ」土地を「糺明」し、蘆浦観音寺に与え、年貢納入などをさせる旨を下す(「蘆浦観音寺文書」)。
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・光教寺顕誓、「反古裏書」執筆。
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・ユグノー、フランス人部隊を結成、ネーデルラントに向かう。
フランス国内でコッセ 元帥がユグノー軍に壊滅的打撃を与え、首領コックヴィルの首を刎ねる。
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・フランス、カトリーヌ・ド・メディシス、タヴァンヌ元帥にルイ・ド・コンデの誘拐を命令。コンデに知られ、コンデはラ・ロシェルに落ち延びる。
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・義勇艦隊「海の乞食団」、スペイン商船襲撃。
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6月2日
・筒井順慶、奈良中に人夫役を賦課し喜多院家の北方の石切に城を構築(「多聞院日記」2)。
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6月3日
・武田信玄、上杉家臣本庄繁長の反乱に呼応して越後に出兵。
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6月5日
・ブリュッセル、アルバ公、エグモント伯(46)を大逆罪で処刑。
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6月16日
・足利義昭、島津義久へ、入洛・幕府再興意志を告げ、「殿料」回復に関する諸国への命令を通達。
詳細は細川藤孝に伝達させる(「旧記雑録後編」)。
20日、紀伊粉河寺へ上洛予定を告げ、畠山高政と相談し忠功を督促。詳細は一色藤長・細川藤孝より伝達させる(「粉河寺文書」)。
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6月23日
・三好三人衆、摂津で甲賀衆300と交戦、これを撃破。
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6月24日
・足利義昭、越前を去るにあたり、義景の忠義を賞し、同後、義景の身上を見放さないとの書状を与える(「朝倉家記」)。この約束は2年足らずで反古になる。
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6月25日
・信長、武田信玄から和親の申し入れがたびたびあるが、まだ承諾していないことを直江景綱あて書状で伝える。
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6月29日
・三好康長ら、松永久秀の大和国信貴山城を攻略。
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6月下旬
・豪雨で大堰川が決壊。
山科言継は梅津付近まで出かけ、「大井(堰)川より西七条は海の如し」と日記に書く。
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