東京 江戸城東御苑(2011-11-22)
*弘仁5年(814)
この年
・赤斑瘡(あかもがき、麻疹)が流行。
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・最初の勅撰漢詩集『凌雲集』(『凌雲新集』ともいう)成立。
編纂は、嵯峨天皇が左馬頭兼内蔵頭美濃守の小野岑守に詔を下したことに始まる。
岑守は、式部少輔(しきぶのしようふ)菅原清公(きよきみ)・大学助(だいがくのすけ)勇山文継(いさやまふみつぐ)らとこの仕事を進め、決着しにくい問題は、天皇の意見を徴した。
当代における文筆の大才である播磨守賀陽豊年(かやのとよとし)は老病のために引き篭もっており、岑守は彼の邸を訪れ教示を乞う。これらは、この詩集の序に書かれている。
採択された詩篇は90首、作者23人(嵯峨の作22首・豊年と岑守13首・清公4首・冬嗣3首)、延暦元年(782)~弘仁5年(814)の作品である。
菅原清公:
家は土師氏の支流、清公の父遠江介古人(ふるひと)の世代に、その居所の菅原邑(大和国漆下郡)にちなんで菅原氏を称す。古人は微官で終えるが、儒学と志操をもって知られていた。
清貧の中に生まれ育った清公は、父の許で年少の頃から「経史」(中国の儒教の古典や史籍)をひろく学習し、延暦3年(784)、早良(さわら)皇太子に仕え、5年後には試験を受けて文章生(もんじようしよう)となる。
その後、学業が優れていた為に秀才(官人登用の国家試験の一)にあげられ、延暦17年(798)には対策(上記の考査)に合格、その文才をうたわれて大学少允(しようじよう)になる。
更にその学才の故に遣唐判官(けんとうのじよう)に抜擢され、延暦23年(804)、大使藤原葛野麻呂らに従い長安に赴く。
帰朝後、大学助にすすみ、大同元年(806)には尾張介となり、弘仁3年(812)に任期を終えて京に帰り、左京亮(すけ)・大学頭(かみ)、ついで左・右の少弁をへて式部少輔に昇進。
この時期に岑守を援け『凌雲集』編集にあたり、廷臣の注目を浴びる。
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5月
・嵯峨天皇の更衣の生んだ皇子女の大半は、この日の源信(まこと)ら男女8人を初例として、「源」姓を与えて臣籍に下される。
女御の生んだ皇子女は、基本的に親王・内親王として処遇される。
嵯峨天皇は、子供を産んだキサキだけでも24人、皇子23人・皇女27人を得ている。
嵯峨自ら「男女やや多く、空しく府庫を費やす」というように、養育費や成人後に授けられる品階に応じた給与の負担は大きい。
そこで、嵯峨朝で女御を二つに分け、相対的に下の階層出身の女性を更衣と呼ぶことにする。
これを承けた『弘仁式』では、妃・夫人・嬪の下に公式に女御・更衣が規定されている(「本朝月令」)。
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6月
・万多親王ら、「新撰姓氏録」を撰上。
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12月
・この日付けの勅。帰降の夷俘に対して、宮司や百姓はその姓名を称さず、常に夷俘と呼んでいる。彼らはすでに国家に従っているので、深く恥と思っている。速やかに告知して夷俘と呼ぶことがないようにし、今後は官位か姓名で呼ぶようにせよ、という(『日本後紀』弘仁5年12月癸卯条)。
俘囚・夷俘の飢饉の苦しみや、宮人・百姓から受ける差別の苦しみに国家が耳を傾ける内容。
入京越訴や夷俘専当国司への訴えが、国家に移配蝦夷の生活苦や社会的差別などの問題を認識させ、これらの法令を発令させた。
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