2011年11月15日火曜日

大同2年(807) 伊予親王(桓武の子、平城の異母弟)事件

京都 永観堂(2011-11-04)
*
大同2年(807)
・この年から、国司による叙位を規制する法令が繰り返し出される。
但し、実効のほどは疑わしい。

陸奥・出羽の国司は、蝦夷を懐柔するための手段として、宝亀5年頃から蝦夷に対して叙位を行う権限を付与され、増大する禄を確保するために調庸物の京進義務を免除されていた。
しかし、蝦夷の有位者が増大し、この年から、国司による叙位を規制する法令が繰り返し出される(『類聚国史』巻190大同2年3月丁酉条、『日本三代実録』貞観15年12月13日甲寅条、『類聚衆三代格』巻18延喜5年6月28日太政官符)。

陸奥・出羽の国司が規制を無視してて蝦夷に叙位を行い、禄を支給し続けたのは、蝦夷支配の安定化のためもあるが、朝貢によってもたらされる蝦夷の特産物を収取する目的もあった。
陸奥・出羽の国司は、任期を終えて帰京する際に大量の「私荷」を京に運んでいたという(『統日本後紀』承和12年正月壬申条)。
それが容認されたのは、蝦夷支配が極めて困難なものと認識されていたからで、征夷を放棄した9世紀の律令国家は蝦夷支配の一切を、陸奥・出羽の国司に委任せざるを得なかった。
*
5月
・この月、平城天皇は亡父桓武の好みの神泉苑に行幸、伊予親王は天皇のために献物し、君臣の宴飲は終日に及ぶ。
*
9月
・この月、神泉苑での饗宴で皇太弟(賀美能)は歌を献じ、平城天皇も直ちにそれに和して作歌を披露する。
*
10月
・この年の秋、巫覡(みこ)の徒の跋扈が甚だしく、平城朝はこれらを厳しく抑圧する。
前年の洪水がのもたらした災害が大きく、この年は悪疫が流行、死者が続出し、都をはじめ地方に至るまで人心を不安に陥れる。
人々は淫祀に集まり、そにつけこんで巫覡の徒がしきりにうごめく。
*
・国司任期を6年に改める。
*
伊予親王事件
この年、藤原宗成が、桓武天皇の皇子、平城天皇の異母弟、伊予親王に謀反を勧め、これを聞き知った大納言藤原雄友(おとも、伊予の母の兄)が右大臣藤原内麻呂(うちまろ)に相談するという事件が起こる。

10月27日、親王は、危険を察知し、宗成が自分に謀反を勧めたことを天皇に奏上。
訊問をうけた宗成は、親王こそ首謀者だと弁解。

平城は、この自白に激怒し、左近衛中将安倍兄雄(あべのえお)・左兵衛督巨勢野足(こせののたり)らを遣わし、兵150人をもって親王の邸を包囲し、伊予とその母藤原吉子(よしこ、南家藤原是公の娘、雄友の姉妹)を逮捕し、大和国川原寺に幽閉する。
この時、兄雄は躊躇わず親王の潔白を論じて天皇を諌めたという。

11月12日、10日間飲食を止められた2人は、ともに毒を仰いで自殺(『日本紀略』)。

桓武は南家(藤原武智麻呂を始祖とする)を優遇していたこともあり、平城の異母弟伊予親王は、桓武の寵愛を受け、豪放な性格でもあったらしい。
桓武に寵愛を受けた前歴が、平城・伊予の双方に微妙な影響を与えた可能性もある。
事件は、平城の過剰防衛が引き起こしたもの。

かつて早良親王の怨霊に悩まされた平城は、今度は伊予親王母子のそれにまで怯えるようになり、風病(躁鬱病か)が再発する。    

この事件では、吉子の兄で大納言の雄友(おとも)など外戚や、藤原継縄の子乙叡(おとえい)も連座。
桓武朝で隆盛を誇った藤原南家は、この事件により没落し、代わって北家(藤原房前(ふささき)を始祖とする)が台頭する。

藤原氏の諸流
南家の系統:大納言雄友(おとも)・中納言乙叡(おとえい)、
式家の系統:参議縄主(なわぬし)・参議緒嗣(おつぐ)、
北家の系統:右大臣(台閣の首班)内麻呂、参議葛野麻呂(かどのまろ)と同園人(そのひと)。

天皇の生母亡乙牟漏・贈皇后亡帯子の関係からいえば、平城は式家の諸流との間に因縁が深い。

伊予親王の母は桓武の夫人吉子(よしこ)。
吉子の父是公(これきみ)は延暦2年(783)~延暦8年(789)、右大臣として台閣の主座を占めていた。この年、吉子の兄雄友(おとも)は大納言で、右大臣内麻呂につぐポストにいた。

父桓武は伊予親王に三品(さんぼん)を授けて厚遇し、しばしばその山荘に行幸して交歓を重ねている。
平城朝でも、伊予親王は中務卿(なかつかさのかみ)で大宰帥を兼ね、平城天皇からも重んぜられていた。

平城は、父桓武の遺志によって、自らの皇子をさしおいて同母弟賀美能(神野)を皇太子に立てた。
王位継承は兄から弟への輩行(はいこう)であり、賀美能以外の桓武の親王たちも、皇位継承者たりうる条件を備えていた
平城には有力な異母の親王が多く、伊予親王もその1人。
こういう意味では、王権そのもののありかたは十分に安定していたとはいえない。
そのうえ王座を巡り諸貴族の競合は熾烈で、そうした状況が平城の猫疑心を一層かきたてた。
そこが天皇としての平城の弱点。
*
12月29日
・調庸の粗悪・違期・未進があれば、処罰としては長官たる守を首犯とする「節級連坐」に戻し(つまり戸婚律の原則通り)、未進分の補填には国司の公廨を充てよとする(『類聚三代格』巻8)。

粗悪への対応としては、貞観6年(864)8月9日に大同2年の制(戸婚律の規定)を確認し(『三代実録』)、以後は法令が途絶える。
違期については、大同2年格以降はたいして対応策は講じられない。

形としては守を首犯とする節級連坐制の維持ということであるが、調庸未進が一般化する中で、違期や粗悪を咎め立てても無意味なので、延喜・延長年間以降、勧戒的・形式的な命令が出されるのみになる。
未進についても、承和年間を過ぎると科罰しようという命令は出されなくなる。
*
*

0 件のコメント: